〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/12 (土) 祗 園 女 御 (二)   

寒々さむざむ と、木の葉まじりの 時雨しぐれ が、しとどな音を、道のぬかるみにも、小川や森の上にも、立てていた。
初冬の、そんな晩でも、上皇は、供の忠盛、家貞をつれて、祗園女御の家へ、通って来られた。
すると。 に、赤い火のゆれと、人影が見えた。上皇は、すくみ立って、叫ばれた。
「やっ。悪鬼あっき ?」
── まるで、針のみの を着たような、大頭の怪物が、かっと、こっちへ向いて、口をspan> いたかのように見えたのである。
「忠盛忠盛。 りすてい」
上皇は、恐怖にみちたお声の下で きたてた。あっと、木工助家貞がまず答え、忠盛は、長刀なぎなた を横にひそめて、そこへ けた。
だが、すぐこの君臣三人は、大笑いを残して女御の家の門へ、入って行った。
── 怪物と見えたのは、かさ の代わりに、麦ワラをたば ねてかぶっていた八坂やさか の油つぎ坊主が、燈籠とうろう を入れていたものであった。
悪鬼、妖怪ようかい雷神らいじん風神ふうじん などの実在を、貴族も一般人も、疑わない時代であった。それにしても、よほど、後では、おかしかったとみえて、当夜のおどろきや、雨夜あまよ 坊主ぼうず滑稽こっけい さを、上皇自身も、たびたび、側近に語られた。
そのたびにまた、上皇には、かならずそのおりの、忠盛の態度を、 めちぎった。もし、忠盛が、臆病者おくびょうもの であったら、かならずあや って、罪もない坊主を斬り殺していたにちがいない。剛胆ごうたん沈着ちんちゃく 、武者たる者は、よろしく彼の如きであれ ── と、言うのである。
ところが、暇の多い公卿たちは、得意の憶測おくそく をもてあそんで、
「はて、院のお話も、どこまでが、ほんとやら、どうも、正味には受けとれぬ」
と、蔭では言った。
理由を、言わせてみると ──
「第一、あの夜以来、上皇は、祗園女御の許へ、ふっつり、お通いを絶っておしまいなされた。第二には、そのおりの功として、祗園女御を、忠盛の妻に、あっさり、お与えなされてしまったが、これもおかしい。・・・・ 第三には、女御を賜った当人の忠盛は、あれ以来、怏々おうおう と楽しまない顔つきだし、また、彼自身は、雨夜坊主の話など、一言ひとこと も、人に話したためしがない」
「なるほど・・・・?」
だれもが、変に思い出した。しかもまた、疑惑を、裏書きする事実も加わって来た。
上皇から忠盛へ賜って、今出川の彼の邸へ、妻として、輿入こしいれ れした祗園女御が、忠盛との同棲どうせい も、まだ十ヶ月に足らない内に、男子を、産んだといううわさなのだ。
「やはり、雨夜坊主の件は、上皇のつくり話じゃよ。あれは表面の事でしかない」
「では、その裏は?」
好奇な眼も、おたがい、そこまでは、触れあわなかった。彼らの良識としても、また、つきつめて行けば、問題は極めて重大なものにぶつかるという保身のおそれからも、ただ眼を細めて、にんまりと、 みすましておくことが、堂上生活では、賢明とされていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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