〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/12 (土) 祗 園 女 御 (一)   

平太清盛が、生まれたのは、元永げんえい 元年である。父忠盛は、二十三歳であった。
近ごろでこそ、スガ目殿だの貧乏平氏のと、地下ちげ びと の代名詞にされ、同族の親類にまで、小ばかにされているけれど、彼とて、以前からこんなだった訳ではない。
祖父正盛は、白河、堀河ほりかわ鳥羽とば の三朝に仕え、
ぶん を知り、ものの役に立つ侍)
と、主上の御信任はあつかった。その子忠盛も、はな やかな中に成長し、そして、一時大いに用いられた源義家以下の源氏武者の退潮に代わって、平氏系の武人が、あちこちの田舎いなか から、ぼつぼつ中央に登用される契機をなしたのも、実に、この父子おやこ の代であった。
白河上皇は、気にくわぬ源氏系人物を、しりぞける道具とてし、正盛父子を、登用した。また、僧団の武力にも対抗させて、内には、藤原氏を掣肘せいちゅう するにらみに使った。
── そして、退位の後も、政権を持たれ、いわゆる 「院政」 のたん をここに開いたものだった。
だが、この畸形きけい な院政の制度と、白河直裁の人事は、たちまち、朝廷と院との対立を生み始めた。また、それが二重の因となって、このころからようやく
源氏・対・平家。
の対立も、地方武士間にまで、広がって行った。源氏か平氏か。いずれかに らなければ、時流に乗れないという思潮が、ぼつぼつ興り出していたのである。
(理由なく、源氏に拠り、平家へはし り、みだりに、武威をなすべからず)
などという入党禁止令も出たが、ほとんど効はなかった。
正盛の き後は、息子の忠盛が、あとを継いだ。白河上皇は、気のおけない忠盛を、正盛以上、重宝ちょうほう に思われた。
たとえば、こんな一例もある。
院のお住居は、三条西ノ洞院とういん にあったが、そこからおりおり──きまって夜、加茂をわたって、祗園ぎおん まで、おしのびになった
供は、いつも、ただ二人。
武者所の忠盛と、その郎党、木工助家貞、ときまっている。
もちろん、おしのびは、ある女性にょしょう の許へ、であった。上皇はすでに六十路むそじ におちかいけれど、その道にかけては、なみなみならぬ御好色であったらしい。お年にめげぬお元気さは、政治方面における絶倫な御精力にも、あらわれていた。
ことには。── 時代の風習からも、上皇が、愛人を外にかくまって、ときたま、お通いになるからといって、時人は、べつに とも何ともしてはいない。男が、女の寝屋へ通うのは、むしろ上古の純風で、奈良朝や平安朝の宮人みやびと たちが、みな、行っていたことである。親王でも、関白でも、大臣おとど たちでも、その程度の忍びごとは、なにもそう非人格的であったり、名誉にかかわる問題とはしていなかった。
けれど、上皇のおしのびには、ないない、世間をはばかられる訳が、別にあった。
── と言うのは、その寵姫ちょうき が、どうも、身分の低い女性であったことによるものらしい。
白拍子しらびょうし という名称は、ごく近年、聞こえ出したものであるが、彼女は、その白拍子の一人だった。貴人の邸に招かれて、伎楽ぎがく管絃かんげん の興をそえる特種なおんな は、遠い以前からあったけれど、近ごろ、たて烏帽子えぼし に白い水干すいかん を着、さや巻の太刀たち などさして、朗詠を歌いながら、男舞を余興にすることが流行となってから──遊君ゆうくん遊女ゆうじょ の一派として、白拍子なる一階級が、新たに、世相に浮かび出している。
上皇が、どこで彼女と馴染なじ まれたかは、よくわからないが、世間へは、なか 御門みかど の息女とふれて、八坂やさか のほとりに、清洒せいしゃ桧垣ひがき をめぐらした一と構えができ、さる白拍子あがりの佳人かじん が、そっとかく まわれて来たことは、院の側近四、五名だけは、早くから知っていた。
その人々の間では、かりにその女性を、祗園女御ぎおんのにょご と呼んでいた。女御にょご更衣こうい は、宮中の称呼しょうこ なので、わざと、地の名をつけて呼び、世間には、退官の寵姫のように、見せつくろっていたのである。
祗園女御。──この女性こそ、後の清盛の母であった。彼女は確かに、清盛を産んだ。それだけは、まちがいない。
けれど。・・・・父は?
父は、だれ?
── となると、彼女以外に、この秘密は、所詮しょせん 、解けない謎となってしまう。
どうして、そんな単純なことを、謎と考えなければならないのか。生まれて、二十年もの後、その子清盛をして、悩乱のうらん せしめなければならないのか。その事自体の方が、よほど、ふしぎと言ってよい。
だが、こいうあやしい禍因かいん をつくるものの素地したじ は、やはりそのころの時代が持っていたものであろう。優雅と繊細せんさい を極めた平安朝芸術にくるまれた貴族生活の “陰翳いんえい ” が自然に宿すかび の一つと言うほかはない。だから、幾世紀もの間を、貴族の中で送ってきた人々の風習と性道徳にすれば、べつに奇とするほどなことではなかったのかも知れないのである。。

※時人
その当時の人。その時代の人。同時代の人。
※女御
天皇の寝所につきそった、皇后・中宮に次ぐ高位の女官。 「にょご」 「にょうご」 いずれでもよい。
※更衣
昔、女御の次の位の女官。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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