〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/11 (金) 胎 児 清 盛 (二)   

枯れ草の生えた崩れ築土ついじ と、腕木うでぎ も傾いた怪しげな屋敷門とが、眼の前に来ていた。清盛は、わが家と気づくと、ぞっとした。
「困ったぞ。何と言おう?・・・・なんと」
それもだが。
今夜に限って、父のこわさ以上、母を見るのが、いやだった。たまらなく、腹が立っている。あの声を聞くのも、いやだ。
ほんとなら、こういう時こそ、ともに父の前へ、あやま ってもらいたい母親に、こんな反逆を抱く子が、どこにあろうか。築土の崩れを見上げながら、彼は、孤独の感にとらわれていた。
多感たかん は、彼の天性に近い。こめかみの辺を、異常に、けいれんさせながら、その大頭の中では、何か単純でない多血なあわつぶを、奔流みたいに、明滅させている彼であった。
「いっそ、母の素性など、知らずにいた方がよかったかも知れぬ。・・・・盛遠に会って、あんなことを、聞かされなければ」
それも、悔いられたが、その盛遠と、女たちをまじ えて、大酔いした遊びの座も、きれぎれに、思い出されて来る。いや、もっと忘れかねたのは、遊女宿の一間に、置き残しして来た寝ぎたない黒髪と、容易にどうにでもなる四肢しし を持った肉塊だった。それが美人か、醜女しゅうじょ かなどは、問題ではない。二十歳はたち にして初めて知ったふしぎな忘我と、生命の恍惚こうこつ に、彼自体が、ただおどろいた事実なのだ。そして、これが、女のはだ を知ったということなのか── と、頭はのべつ甘い追憶にとらわれて、何か、すかっとして、燃え殻のようになった軽さを、自分の肉体に気づくのだった。
(ひょっと、女の匂いが、自分の体に、しはしまいか)
このおそ れが、また、彼をしばらく、たじろかせていた。しかし、やがて築土を、跳び越えた。なぜ、こんな夜に限って、こんな罪悪感にとらわれるのか。ただの夜遊びでは、何度も、越えなれている築土なのだ。──跫音あしおと は、いつものように、うまや の裏の畑へ降りた。
「おっ。和子わこ さま よな。・・・・平太様かよ」
「あ、じじか」
清盛は、棒立ちのまま、わが髪の毛をつかんでしまった。
じじ というのは、木工助もくのすけ 家貞である。父に次いで、清盛がけむたいのは、この忠誠な家来であった。自分など生まれないうちから、家に仕えて、もう前歯も二、三本欠けているほどな者だし、いかに世間が、ここの主人を、無能と言おうが、貧乏平氏とあざけ ろうが、彼のみは、武家の家憲を守り通し、主従の礼儀、言葉づか い、いやしくも、折り目切れ目を、くずしたことのない家人けにん だった。
「なんと、なされましたな。・・・・この深夜までは、街の とて、とも ってはおりますまいに」
ころげ落ちた清盛のふる 烏帽子えぼし を拾い上げて、その人の手に返しながら、木工助はなお、 でるように、彼の姿を見まわした。
「もしや、喧嘩けんか のちまたにでもと、取り越し苦労の限りもなく、寝よと、大殿おおとの に申されても、寝られたことではござりませなんだ。・・・・でもまあ、ようこそ、ようこそ」
真実、木工助は、眼を細めて、安堵あんど に喜びほぐれている態だった。それだけになお、清盛は、彼の顔を、まともに見ることが出来なかった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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