〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/11 (金) 胎 児 清 盛 (一)   

この家には、壁がない。
部屋のさかいは、板仕切りであり、入口には、古布をとばり とし、妻戸つまど の代わりに、むしろなど、垂れてある。
いくら寝坊な者でも、隣のばか騒ぎに、安眠しているわけにはゆくまい。
── つづみ を打つ、はち をたたく、猥歌わいか をうたう。あげくに今、しりもちでもついたような、家鳴やな りと、男女の笑い声が、一しょに沸いた。
「や? 俺は。・・・・しまった。もう、何刻なんどき だろう」
眼をさましたとたんに、清盛は、ひどくうろたえた。おばに女が寝ている。たしかに、六条洞院とういん遊女宿あそびやど 。──盛遠に誘われて来た家である。
「弱ったな。帰るらにゃならぬ・・・・」
家へ、なんと、うそを言おう。父忠盛の顔つきが見える。母のガミガミが聞こえるようだ。幸い、叔父から借りてきた金は、みんなまでは、費っていない。── そうだ、今のうちにと、むっくり起きた。
「・・・・が、盛遠は、まだ、騒いでいるのかしら」
女の黒髪を踏むまいと、清盛は、その胸をまた いだ。そして、 のもる節穴から、隣の騒ぎをのぞいて見た。何もない板じきの一部屋には、松明まつあか りを灯皿ひざら にくべ、どこの法師たちやら、悪僧面あくそうづら が三、四人、遊女あそびめ たちを、ひざへ乗せたり、抱えたりして、すでに飲み空けた酒壺さかつぼ かが、幾つも横に、ころがされてある。
「あ、先に帰ったな。・・・・盛遠は俺を残して」
彼は、一そうあわて出した。例の、ボロ直垂ひたたれ を着け、太刀を腰へつるすのも、あたふたと、縁伝えんづた いに、出口をさがした。
暗いし、戸惑とまどい い気味もあった。何やら、足の先に、金属的な物音を のこしたまま、逃げるように、戸口を出た。
すると、物音に、飛び出して来た法師たちが、
「待て待てっ」 と、口々に、清盛の後ろで、わめいた。
「ひとの長刀なぎなた蹴仆けたお しながら、肩そびやかして出て行くは、どこの何者だっ。待ちおろうっ、そこな小男」
清盛が振り向いた眼の先へ、チカッと来たのは、すでに、言葉ではなく、白い長刀のひらめきだった。おそらく叡山えいざん かどこかの、屈強な荒法師の手練しゅれん に違いない。死神の手のように、それははや かった。彼は一ぺんに酒気もさまし、宵の快楽けらく も、あとの悩みも、消し飛ばして、夜風の中を、逃げていた
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next