サク市には、今日は、人影もない。 賽日
とみえて、そのかわりに、榎の下の赤い灯だの、花束だの、香こう
の煙が、夕やみにゆらめいていた。 白拍子しらびょうし
らしい女たちや、もっと低い種類の遊あそ
び女め たちが、幾組も連れ立って、後から後から榎の下へ詣まい
ってゆく。 むかし、袴垂はかまだれ
保輔やすすけ という大盗の妾めかけ
がここに住んでいた。その跡がこの大榎だということになっている。そこで、いつごろからか、この榎に願掛がんかけ
けすれば、浮気男に夢が通じるとか、恋仇こいがたき
を病や みつかせるとかいう迷信が生まれ、袴垂が獄死した永延えいえん
二年六月七日の七ノ日を賽日さいにち
として、クサ市の盗児から、いろんな種類の女たちまでの参詣さんけい
が、こんな風ににぎわうのだった。 四位の朝臣あそん
の家に生まれながら、放火、群盗、殺人などの悪行をほしいままにして、世に袴垂の悪名を売った男の名は、もう百年以上もたっているのに、妙に、今でも市井しせい
に何か残している。 それは、藤原一門の専横せんおう
も絶頂期の、法成寺ほうじょうじ
関白道長のころの一社会事件であった。 ── この世をばわが世とぞ思ふ ── と歌った道長の全盛ぶりに対する細民たちの感情を、袴垂が、一個の身に代表して、あんな反抗をやったものと、当時の庶民は、逆に彼を礼讃らいさん
したのかも知れない。とすれば、藤原閥の命脈のあるかぎり、この香華こうげ
も、絶えないであろう。庶民の迷信は、庶民の祈りの変型と言えなくもないからだ。 「たしかに、俺の中にもある。袴垂と似たような血が・・・・・」 清盛は、榎の下の赤い灯が、自分の未来を暗示するものみたいに思えて、なんだか、こわくなってきた。──で、急に、立ち去りかけると、 「おい、伊勢ノ平太。さっきから、何を見ていた。榎詣えのきもうで
での女の顔でもながめていたのか」 夕やみなので、誰なのかも、よく分からない。はっとするまに、相手は両手をのばしていた。そして、彼の両肩を両手でつかみ、首がガクガクするほど揺すぶった。 「あ。・・・・盛遠もりとお
か」 「されば。この遠藤盛遠を、忘れる奴があるものか。どうした、おぬし。いやに保ほ
うけた顔しているじゃないか」 「え、そうか。・・・・まだ瞼まぶた
が、腫れているか」 「美しい母御前と、スガ目殿との夫婦みょうと
喧嘩げんか で、また、わが家にもいたたまれずに出て来たか」 「うんにゃ、母は、寝こんでいる」 「病気でか・・・・」
盛遠は、冷笑した。 ふたりは、勧学院の同窓だった。年は、清盛が一つ下だが、学生のころから、盛遠のほうが、ずっと大人びていた。学問でも、清盛は彼の足元にも追いつけなかった。教授の文章博士もんじょうはかせ
などからも、俊才といわれたり、将来に逸材と、属目しょくもく
されていた盛遠なのだ。 「あははは。申しては、失礼かも知れぬが、あの女性にょしょう
の病やまい などは、気まぐれ病、わがまま病ときまっている。なあ平太。くよくよするなよ。それよりは、どこかで、酒でも飲もう」 「え。酒・・・・」 「そうさ。祗園女御ぎおんにょご
は、幾人の子の母になろうと、やはり昔の祗園女御だった──というに過ぎない話じゃないか」 「盛遠。だ、だれのことだ。祗園女御とは」 「知らないのか。・・・・わぬしの、母の前身を」 「知らぬ。・・・・和殿わどの
は、知っておるというのか」 「おう。聞きたければ、話してやる。ともかく、俺について来い。スガ目殿は、宿命としても、若い平太までが、青春をしぼませてなんとするぞ。──日ごろから、ひとごとならず思っていたところだ。ベソベソするな。なんだ、あんな女ごときに」 盛遠は、もひとつ、どやすように、清盛の背をたたいて、暗い小路を、先に歩きだした。
|