〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/11 (金) わ ん わ ん 市 場 (三)   

サク市には、今日は、人影もない。
賽日さいにち とみえて、そのかわりに、榎の下の赤い灯だの、花束だの、こう の煙が、夕やみにゆらめいていた。
白拍子しらびょうし らしい女たちや、もっと低い種類のあそ たちが、幾組も連れ立って、後から後から榎の下へまい ってゆく。
むかし、袴垂はかまだれ 保輔やすすけ という大盗のめかけ がここに住んでいた。その跡がこの大榎だということになっている。そこで、いつごろからか、この榎に願掛がんかけ けすれば、浮気男に夢が通じるとか、恋仇こいがたき みつかせるとかいう迷信が生まれ、袴垂が獄死した永延えいえん 二年六月七日の七ノ日を賽日さいにち として、クサ市の盗児から、いろんな種類の女たちまでの参詣さんけい が、こんな風ににぎわうのだった。
四位の朝臣あそん の家に生まれながら、放火、群盗、殺人などの悪行をほしいままにして、世に袴垂の悪名を売った男の名は、もう百年以上もたっているのに、妙に、今でも市井しせい に何か残している。
それは、藤原一門の専横せんおう も絶頂期の、法成寺ほうじょうじ 関白道長のころの一社会事件であった。
── この世をばわが世とぞ思ふ ── と歌った道長の全盛ぶりに対する細民たちの感情を、袴垂が、一個の身に代表して、あんな反抗をやったものと、当時の庶民は、逆に彼を礼讃らいさん したのかも知れない。とすれば、藤原閥の命脈のあるかぎり、この香華こうげ も、絶えないであろう。庶民の迷信は、庶民の祈りの変型と言えなくもないからだ。
「たしかに、俺の中にもある。袴垂と似たような血が・・・・・」
清盛は、榎の下の赤い灯が、自分の未来を暗示するものみたいに思えて、なんだか、こわくなってきた。──で、急に、立ち去りかけると、
「おい、伊勢ノ平太。さっきから、何を見ていた。榎詣えのきもうで での女の顔でもながめていたのか」
夕やみなので、誰なのかも、よく分からない。はっとするまに、相手は両手をのばしていた。そして、彼の両肩を両手でつかみ、首がガクガクするほど揺すぶった。
「あ。・・・・盛遠もりとお か」
「されば。この遠藤盛遠を、忘れる奴があるものか。どうした、おぬし。いやに うけた顔しているじゃないか」
「え、そうか。・・・・まだまぶた が、腫れているか」
「美しい母御前と、スガ目殿との夫婦みょうと 喧嘩げんか で、また、わが家にもいたたまれずに出て来たか」
「うんにゃ、母は、寝こんでいる」
「病気でか・・・・」 盛遠は、冷笑した。
ふたりは、勧学院の同窓だった。年は、清盛が一つ下だが、学生のころから、盛遠のほうが、ずっと大人びていた。学問でも、清盛は彼の足元にも追いつけなかった。教授の文章博士もんじょうはかせ などからも、俊才といわれたり、将来に逸材と、属目しょくもく されていた盛遠なのだ。
「あははは。申しては、失礼かも知れぬが、あの女性にょしょうやまい などは、気まぐれ病、わがまま病ときまっている。なあ平太。くよくよするなよ。それよりは、どこかで、酒でも飲もう」
「え。酒・・・・」
「そうさ。祗園女御ぎおんにょご は、幾人の子の母になろうと、やはり昔の祗園女御だった──というに過ぎない話じゃないか」
「盛遠。だ、だれのことだ。祗園女御とは」
「知らないのか。・・・・わぬしの、母の前身を」
「知らぬ。・・・・和殿わどの は、知っておるというのか」
「おう。聞きたければ、話してやる。ともかく、俺について来い。スガ目殿は、宿命としても、若い平太までが、青春をしぼませてなんとするぞ。──日ごろから、ひとごとならず思っていたところだ。ベソベソするな。なんだ、あんな女ごときに」
盛遠は、もひとつ、どやすように、清盛の背をたたいて、暗い小路を、先に歩きだした。

※賽日
やぶいり。奉公人が休暇をもらって家に帰る一月と七月の十六日のこと。仏教では、地獄の釜の蓋が開く日 (閻魔の賽日) という。閻魔参りとも。
※白拍子
平安時代の末ごろ、遊女の舞った男装の舞。また、その舞をする遊女。 「静御前」 など有名。
※袴垂保輔
平安時代の盗賊。ただし、伝説上の盗賊で、袴垂と保輔は別人だと言われる
※遠藤盛遠
後の文覚。鎌倉前期真言宗の僧。源ノ渡の妻袈裟御前を斬って、発心出家した経緯は本文に詳しい。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next