〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/11 (金) わ ん わ ん 市 場 (一)   

二月の寒風さむかぜ を、初東風はつごち とかいう。春だと思うせいか、よけいに冷たい。
「ああ、腹が減った。すき腹のせいもあるぞ」
叔父も叔母も、めし を食うて行けとも言ってくれなかった。──それさえ、かえって幸いに思えたほど、そこの門は、逃げるように飛び出して来たのである。もうこんな使いはしたくない。乞食こじき になってもしたくないと思う。
「おれともある者が、ぼろぼろ、涙をこぼしたのが残念だ。ぜに を見て、泣いたと、先では、考えたろうな。それがいまいましい」
まだまぶた が、 れぼったい。──往来の者が振り返ると、彼は、泣いたあとを、見られる気がした。いや、涙よごれの顔よりも、じつは若い清盛の身なりの方が、およそ人目を引くものだった。
よれよれな布直垂ぬのひたたれ に、あか じみた肌着はだぎ ひとえ。──羅生門に巣くう浮浪児でも、これほど汚くはあるまい。もし、腰なる太刀たち を除いたら、一体何に間違われるか──だ。泥田を踏んで来たような草履ぞうり革足袋かわたび 。うるしのはげた烏帽子えぼし は、すこしはす かいに乗っかっている。背丈はずんぐり短く、かた肥りという体躯からだ だ。
背のかわりに、頭が大きい。耳、鼻、口、造作すべてが、大振りなのが、この顔の特徴だった。眉毛まゆげ はふとく、それにともなう切れ長な目尻が、下がり気味に流れているため、いささか愛嬌あいきょう があって、あやうく “異相なる小男” の残忍さを救っているという容貌かたち である。
いや、それと、色が白いことである。大きな耳たぶが、血のたれるばかり紅々あかあか としているのも、この青年の、異相ながら、美しさの一つと数えてよい。
──で、人は、 「どこの小殿ことの であろ」 「何をする武者やら、小冠者こかじゃ やら?」 と、怪しむのであった。また悪い癖で、清盛はよく、ひところ手で歩く、良家の子弟にはない風儀だ。父の前では絶対にやらないが、戸外へ出ると、癖が出る。──これはまちがいなく、塩小路に集まる人種の影響であった。
「今日は、立ち寄るまい。ぜに を持っている・・・・・口惜しくも、借りた銭を」
彼は自分をおそれた。そこの魅力が、すでにむらむら意欲に響いていたからであろう。生まれつき、意思が弱く、煩悩ぼんのう には てない自分を、よく、わきまえてはいたのである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next