それにひきかえ、母は美しい。まだ二十代とも見えるほどだ。あれで五人の子の母かと、世間のあやしむのも道理である。そのかわり、いくら貧乏が迫ろうと、身の粧
いは崩さなかった。見るに見かねて、召使たちが、食糧の工面くめん
もする。そして、垣かき の古竹やら床板ゆかいた
をはいで炊かし ぎの焚た
き物にしたり、幼い子らが、垢あか
じみた身なりでピイピイ泣きながら、尿いばり
の垂れ流しをしていようと、彼女は知った顔つきではない。彼女は、良人にも誰にも冒おか
させない塗籠ぬりごめ の一室を持ち、起きれば、蒔絵まきえ
の櫛笥くしげ や鏡台を開き、暮れれば、湯殿ゆどの
で肌をみがく。そしてはときどき、家人でさえ、あっと、びっくりするような衣裳いしょう
を着こんで、 (親類の中御門なかみかど
様へ、ごぶさたのお詫わ びに行ってまいります) などと、貴人の外出そのままな容態で、近所の牛車宿くるまやど
まで、なよかに歩き、そこからいつも、牛車を雇って出かけて行く。 「女狐めぎつね
じゃ・・・・・。 あの美しさは」 召使まで、蔭では言った。子飼いの郎党で、もう髪も白くなりかけている木工介もくのすけ
家貞なども、じっと怺こら える眼をして、よく、泣き止まぬ子を背に負いながら、出て行く子の母を見送ることがあった。夜も、厩うまや
のまわりを、かれの子守歌の声が巡り歩いていることが毎度であった。 そんなときさえ、忠盛は、黒い柱によりかかったまま、瞼をふさいで、黙然と、想い沈んでいるにすぎない。 経盛は、勉強家である。たいがいな場合、われ関せずと、机に向かって、書を読んでいる。 その弟も、清盛も、早くから、勧学院かんがくいん
の学生がくしょう であったが、しかし清盛は、いつか通学をやめていた。
──すこしは、学問もたれよ。と父からたまには戒告をうけるが、いまの世上を見ても、家庭をながめても、ばかばかしくて、孔子こうし
の書物などは真ま に受けられなかった。父の懶惰らんだ
をまねて、弟の机の脇にふん反ぞ
り返り、賀茂競馬のうわさとか、近所の女のはなしなどを持ちかけた。弟が耳をかさないと、天上をにらまえながら、鼻の穴などほじくっている。また、ときには、裏の的場まとば
へ飛び出して、にわかに弓を引いてみたり、不意に、厩うまや
の馬にムチを加え、大汗かいて返って来たり──といったふうで、とかく彼には、規矩きく
がない。 母も、変わり者。父も変わり者。ひとり次男の経盛が、やや真面目まじめ
そうではあった。けれど、かんじんな惣領息子そうりょうむすこ
の清盛がまた、このとおり、どこか毛いろ違いにできている。 困った家族だと、感傷になれば、限りもなく厄介な人間同士の寄り合いだった。とはいえ、それらの個性個性を引っくるめての、伊勢平氏という一つの
「家」 は、そのころ、まだ極めて少数な武人の家として、有数な名家には違いない。都の片すみでは、もう数代の祖々おやおや
を経ている中流社会の一戸こ であった。そしてこれからも、屋敷畑やしきばたけ
の芋いも のように、子蔓こづる
孫蔓まごづる を幾代にも世の中へはわせて行くであろうことも確実であった。しかし、清盛はまだ、自分がどんな芋なのやら、運命の蔓つる
に生な っているものやら何も自覚はしていなかった。ただ彼の若い生命は、至極、屈託のない、健康なものであったということだけは確かである。 |