〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/01/10 (木) 貧 乏 草 (二)   

いったい彼女は、どんな点を、最も言いたいのか。天にこく し、地に訴えたいのか。子の清盛も、聞き飽きているが、要約すれば、およそ次のようなことらしい。
まず第一は、良人なる忠盛が、懶惰らんだ で、生計をかえりみない。幾年でも、家にこも って坐食しているほか、何の能もない。
第二の不平は。──自然、親類の藤原一門とも、 がたえ、宮中の五節会ごせちえ やら、おりおりのお催しなどにも、気恥ずかしくて出られない、あたら、栄花のできる身に生まれながら、つい女の一生を、めちゃくちゃにしてしまった。・・・・・という痛恨。
以上のほか、ややもすると。 「子どもさえなければ──」 という喧嘩の口走りがきっかけと出る。
母の、その最後の決まり文句は、未熟な清盛の心をぐさと刺した。彼は、わけもなく、つらい、悲しい、嗚咽おえつ にせかれた。そしてもう十六、七ともなったころには、自然、年に似合わぬませた で、母の胸を憶測おくそく した。
(もし、子どもさえいなかったら? ・・・・・母は、どうするつもりだろう) と。
母は、父に嫁いだのを、後悔している。ままになるなら、今でも別れたいのだろう。そして、別離して、おそまきにでも、栄花のできる世界へ帰り、よく口ぐせにいう親類の公卿仲間の女たちのように、月を簪し、花を着て、牛車に乗りあるき、あの少将、この朝臣あそん と、浮かれ男相手に恋歌などを取り わして、源氏物語の中の女性みたいな生活を、一ぺんでもしてみたい。そうでなければ、死に切れない。女と生まれたかいもない。──と、あんなふうに、おりおり、油紙に火がつくものにちがいない。
無条件に母を母と信じきれないで、母を観察する眼ばかり日々養われている子の不幸は、いうまでもなかった。
(・・・・・ふん。おれたちが、そんなに邪魔か、ならば、出て行けばよいだろうに。いや、父上も父上だ。なんで、こらえてばかりいるのか。 れったいなあ。・・・・・くそったれめ。藤原がなんだ。藤家とうけ の一族に親類があるからとて、あんなにまで、威張り散らされている父上のお気が知れぬわ。・・・・・父上の意気地なしよ。 ──眇目すがめ の伊勢どのは、美人を妻に持ったため、女房負けしてござるぞと、世間では言っているわ)
清盛とて、二十歳はたち 近くにもなれば、これくらいな義憤は持った。世間の例では、子どもは、母親びいきと決まっているが、彼の家庭では、あべこべだった。父に加担しないのは、まだ母の乳房にいる末子と、わけのわからない三男、四男だけで、次男の経盛なども、冷静なたち だけに、もの狂いするときの母のくちびる を、ときには、憎そうにまで、ひや やかな眼で見ていることがある。
そんなおり、この兄弟にとって、世にも情けない気がするのは、父その人の姿だった。まるで、妻にこき下ろされる為に生きている男のように、黙って、やり込められているではないか。世間のあだ名にされているまぶた の皮のヒッつれた眇目すがめ を伏せて、じっと、自分のひざのこぶし を見ている父・・・・・。
顔に、あばたはあるし、あだ名の通りなスガ目だし、四十幾つの男ざかりだが、父はたしかに醜男ぶおとこ ではある。正直、子の清盛でも、そう思う。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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