これは
『平家物語』 巻十 「横笛」 に見えている滝口入道の発心譚
である。 『源平盛衰記げんぺいじょうすいき
』 にも 「時頼横笛の事」 があり、こちらでは時頼が十八に年に法輪寺ほうりんじ
で出家した事になっている。また、時頼に会えなかった横笛は法輪寺に近い大堰川の早瀬に身を投げたとしている。横笛の名は、建礼門院の兄に当平重盛しげもり
が名づけたという。 横笛の悲恋は、先に見た祇王ぎおう
、小督こごう 、袈裟御前けさごぜん
などに比べれば、あっさりしたものである。時頼の方はともかく、横笛は一方的に捨てられているのだから、さして葛藤かっとう
もない。ただ、時頼の突然の発心が理解できないばかりである。そのわだかまわりも、横笛の出家を知った滝口入道がそれを喜ぶ歌を送り、それに対して横笛が次のような返歌することによって氷解してしまうのである。 |
そるとても なにかうらみむ あづさ弓 ひきとどむべき こころならねば |
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大意は
「あなたが出家されたとしても、どうして恨みましょうか。引きとどめられるような決心ではないのですから」 というものである。 「そる」 は 「剃そ
る」 と 「反そ る」 、 「うらみむ」
は 「恨うら みむ」 と 「末うら
見む」 を掛けている。 滝口入道が出家した嵯峨の往生院は応仁の乱などの幾多の戦乱により荒廃し、 『平家物語』 に哀切なエピソード残した祇王寺と三宝寺
(滝口寺の前身) のみが浄土宗の寺として残っていたが、それも明治維新後に廃寺となった。明治中期に再建された祇王寺に続いて、三宝寺の地に茅葺かやぶき
の御堂が再建された。そのおり、高山樗牛ちょぎゅう
の小説 『滝口入道』 にちなんで 「滝口寺」 と命名されている。 滝口寺参道の途中に 「三宝寺歌石」 と彫られた歌碑がある。時頼に会う事さえかなわなかった横笛が指を切って石に血書したという歌である。 |
山深み 思ひ入りぬる 柴しば
の戸の まことの道に 我をみちびけ |
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ところで、 『平家物語』 が伝える滝口入道の発心譚は、小説
『滝口入道』 によって広く知られることとなったが、実のところ 「維盛出家」 「維盛入水じゅすい
」 の導入部にすぎないのである。 |