維盛
は平重盛の嫡子で、ゆくゆくは平家一門を統率すべき立場にあった。安元あんげん
二年
(1176) 三月、維盛は後白河院の五十の賀の宴で 「青海波せいかいは
」 を舞い、その美しさは光源氏もかくやと思わせるもので、 「桜梅少将」 と称賛された、建礼門院右京大夫うきょうのだいぶ
も、その歌集の中で、この時の維盛の美しさを称え、
「世にも稀なお顔立ちといい、お心配りといい、本当に昔も今も私の知る限り、たとえようもなく素晴らしい御方でした」 と記している。維盛は笛の名手としても知られていた。 治承じしょう
四年
(1180) 、二十三歳の時、維盛は頼朝追討の大将軍に任命されるが、富士川の合戦で水鳥の羽音に驚いて遁走とんそう
し、戦わずして敗れてしまった。福原の新都に戻ると、敗戦の報に激怒した清盛は
「維盛を鬼界きかい
ヶ島へ流してしまえ」 と口走るほどだった。しかし、翌年には、尾張で源行家軍に大勝して面目めんもく
をほどこしている。寿永じゅえい
二年
(1183) 四月、義仲追討のため大軍を率いて北陸に向かうが、倶梨伽羅くりから
峠で義仲軍に完敗する。一気に都に寄せて来た義仲軍を前にして、平家は政権の拠点とした六波羅に火を放って焼き払い、西海へと下って行った。そのとき維盛は、十五歳の時に結婚した二つ年下の北の方
(権大納言藤原成親なりちか
の娘) 、十歳の六代ろくだい
丸、八歳の姫を都に残していた。 寿永三年 (1184)
二月七日、一の谷で敗れた平家の武将たちの首が都大路を引き回されて獄門にかけられた。大覚寺に隠れていた維盛の妻子は嘆き悲しんだが、使いをやって確認させたところ、維盛の首は見当たらないという。聞くところによれば、維盛は都に残してきた妻子を思う余り病気になり、一の谷の合戦には出ていないという。 そのころ、屋島にあった維盛から妻子を気遣う文が届いた。その文末には次のような歌が添えられていた。 |
いづくとも 知らぬあふせの もしほ草 かきおくあとを かたみとも見よ |
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海に漂う海藻かいそう
のように何時いつ
どこで逢えるやも知れない私が書いたこの文を、形見と思って見なさい。この文に対して北の方は泣く泣く返事を書いた。子供たちにも思うところを書きなさいと言えば、
「大変恋しく、思っておりますので早く早く迎えに来てください」 と二人して同じ言葉を書き連ねた。 こんな手紙をもらってはどうしようもない。都に残した妻子恋しさに、維盛は三月十五日の暁に、三人の従者を伴って密かに屋島を脱け出した。阿波あわ
の国から紀伊の国へと渡ったものの、都へ入ることができず、やむなく高野山に登った維盛は、そこでかつて重盛に仕えていた滝口入道に再会するのである。 高野山で出家した維盛は滝口入道の先達せんだつ
で熊野三山くまのさんざん
に参詣する。最後に那智の滝にたどり着いた一行は、小舟に乗って大海へと漕ぎ出して行く。それでもなお妻子への妄執もうしゅう
が断ち切れぬ維盛は、
「無常なる人の身に、妻子などというものは持つべきではなかったのだ」 と詠嘆えいたん
する。滝口入道はいかにもあわれと思ったが、ここで自分まで気が弱くなってはと、ひたすら極楽往生のさまを説き聞かせ、鐘打ち鳴らして入水をすすめたので、ついに維盛は
「南無なむ
」 と唱えて海に入った。二人の従者もあとに続いた。 この世の出来事はすべて無常を悟るための契機であるろし、それを悟った者の発心ほっしん
と往生を 『平家物語』
は飽くことなく説くのである。ことに恋の挫折は格好かっこう
の機縁と見なされた。滝口入道と横笛も、文覚上人もんがくしょうにん
と袈裟御前けさごぜん
も、それ故の悲恋であった。恋が成就じょうじゅ
したとしても、それがもたらす妻子の存在が、また往生のさまたげになるのである。 維盛の弟資盛すけもり
の恋人であった建礼門院右京大夫が維盛の入水を伝え聞いて詠んだ歌は、次のようなものであった。これには解釈はいるまい
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かなしくも かかるうきめを み熊野の 浦わの波に 身をしづめける |
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