〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part T-[』 〜 〜
── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
巴 御 前
木曾義仲を愛した女武者
2012/11/14 (水) 平家追討へ義仲一番乗り
以仁
(
もちひと
)
王の
令旨
(
りょうじ
)
に呼応して最初に都に駆け上ったのは、一般に 「木曾
義仲
(
よしなか
)
」 と呼ばれている源義仲であった。その挙兵以来、義仲にぴたりと寄り添っていた美貌の女武者がいた。それが
巴御前
(
ともえごぜん
)
である。
義仲は源
為義
(
ためよし
)
の次子
義賢
(
よしかた
)
の次男として久寿元年
(1154)
に生まれたが、二歳のとき、父義賢は関東に於いて兄の
義朝
(
よしとも
)
勢力と衝突し、義朝の長男
悪源太
(
あくげんた
)
義平
(
よしひら
)
のために殺されてしまった。ために、
乳母
(
めのと
)
を頼って
信濃
(
しなの
)
に逃れ、木曽の山深くで成長した。義仲四天王として活躍する今井
兼平
(
かねひら
)
とその妹巴御前は義仲の乳兄弟であり、幼なじみだった。
治承
(
じしょう
)
四年
(1180)
、平家追討を呼びかけている以仁王の令旨が源行家によって諸国にもたらされると、頼朝が八月に伊豆で決起し、次いで義仲も九月に信濃で旗を挙げる。同じ年の十月には、富士川の合戦において、平
維盛
(
これもり
)
を大将軍とする三万の大軍が水鳥の羽音に驚いて敗走、
壊滅
(
かいめつ
)
している。その翌年、各地で反平家の蜂起が頻発する中、清盛が耐え難い高熱と激痛にさいなまれながら病没する。六十四歳だった。
寿永
(
じゅえい
)
二年
(1183)
四月、木曽義仲が五万余の兵を従えて都に上って来るとの情報を得て、平家は一門の総力を結集した十万余の大軍を北陸道に派遣した。大将軍は平維盛、
通盛
(
みちもり
)
以下六人である。両軍の決戦場は
越中
(
えっちゅう
)
の国境にある
砺波
(
となみ
)
山だった。このとき、義仲軍は謀計によって平家軍を
倶梨伽羅
(
くりから
)
谷に追い落とし、壊滅的な打撃を与えた。この戦いでも巴御前は一軍の大将として奮戦している。
勝利に乗じて、義仲軍は一気に京に迫った。平家は西国に落ちて再起を期そうとするが、後白河院は平家の思惑を察して比叡山に逃れたので、やむなく
安徳
(
あんとく
)
天皇と三首の
神器
(
じんぎ
)
を奉じ、一門の邸宅が建ち並ぶ
六波羅
(
ろくはら
)
に火を放って都を後にした。寿永二年七月二十五日のことだった。西国に逃れた平家は、やがて
讃岐
(
さぬき
)
の屋島を根拠地として瀬戸内海の制海権を握り、勢いを盛り返す。
今日の都に入った義仲は寄せ集めの軍隊であったうえに、前年の大飢饉の影響で飢えに苦しむ洛中で物盗り乱暴
狼藉
(
ろうぜき
)
に及んだ為に、都人の間に
怨嗟
(
えんさ
)
の声が湧き起こった。義仲の無骨な振る舞いや
田舎
(
いなか
)
言葉も
殿上人
(
でんじょうびと
)
の
嘲笑
(
ちょうしょう
)
の的になった。しかも、西国の平家追討に赴いた義仲軍は、
備中
(
びっちゅう
)
国の水島で敗北を喫してしまう。こうした事態を注視していた後白河院は、密かに鎌倉の頼朝と連携を取り、義仲追討を画策する。
西からは平家、東からは鎌倉の軍勢が京を目指していた。腹背に敵を迎える形となった義仲は、後白河院を奉じて北陸に逃れようとしたが、それを拒否されると、院御所である
法住寺
(
ほうじゅうじ
)
殿の焼き討ちを決行し、後白河院を仮御所に幽閉してしまう。さらに
前
(
さき
)
の関白藤原
基房
(
もとふさ
)
と計って、
寿永
(
じゅえい
)
三年
(1184)
正月十日には
征夷
(
せいい
)
大将軍の
宣旨
(
せんじ
)
を賜るが、すでに、源義経・
範頼
(
のりより
)
に率いられた六万余の軍勢が美濃・伊勢に押し寄せていたし、水島の合戦で勝利した平家も京をうかがって
摂津
(
せっつ
)
福原に十万余の軍勢を集め、堅固な陣を構えていた。
著:高城 修三 発行所:京都新聞出版センター ヨリ
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