出家した盛遠は初め盛阿弥陀仏
、のちに文覚と名乗り、全国の修験しゅげん
霊地で生死の境をさ迷う荒行を重ねて十三年、 「天性不敵第一の荒聖」 とか 「刃やいば
の験者けんざ 」 と呼ばれて畏おそ
れられた。やがて文覚は、戦乱の世に荒れ果てていた高雄たかお
神護寺じんごじ の堂舎修復を志し、あちらこちらへと勧進かんじん
に明け暮れる。 承安じょうあん
三年 (1173) 四月、文覚は後白河院の御所法住寺殿ほうじゅうじどの
の中庭に押し入り、おごそかな詩歌管絃しいかかんげん
の座をものともせずに大音声おんじょう
で勧進帳を読み上げた。この乱暴な振る舞いを制止しようとすれば、左の手に勧進帳、右の手に刀をかざして 「高雄神護寺に荘園一所を寄進されよ。この願いが聞き入れられぬうちは、文覚一歩も引かぬ」
と勧進を強要する。ついには武者所むしゃどころ
の武士たちによって打ち据えられて、文覚は獄ごく
につながれるが、大赦たいしゃ
により赦ゆる された。しかし、それで大人しくなる文覚ではない。勧進帳をかかげて
「世はただ今乱れ、君も民も滅びようぞ」 と大声で叫ぶのを止めず、ついに伊豆国流罪るざい
となる。 伊豆に流された文覚は同じ流罪の境涯にあった頼朝のもとに入りびたって 「平家を討つべし」 と説きつけるが、用心深い頼朝は 「我が命を救ってくれた池の禅尼の後生ごしょう
を弔とむら う為に毎日経をよむばかりだ」
などと言い、容易に乗って来ない。それならばと、文覚は懐から髑髏どくろ
を一つ取り出して、 「これこそ、そなたの父左馬頭さまのかみ
殿 (義朝) のしゃれこうべよ」 と決起を促した。それでもなを逡巡しゅんじゅん
する頼朝の為に、文覚は新都福原ふくはら
に密かに赴いて 「はやく平家の一類を誅ちゅう
して、朝家の怨敵おんてき を退けよ」
という後白河院の院宣いんぜん
なるものを持ち帰り、ついに頼朝に謀反の心を起こさせたという。文覚は後に頼朝の援助を受けて神護寺を再興した。また、東寺の再建にも尽力した。この時代の典型的な勧進聖かんじんひじり
といえよう。 文覚上人の墓は神護寺の背後、高雄山山頂にある。また神護寺には文覚上人の肖像画も残されている。骨太の堂々たる体躯たいく
に太い眉、いかにも天性不敵第一と称された荒聖の相貌である。こんな男に思い込まれては、女の命が幾つあっても足りないだろう。 |