袈裟御前の秘話は、文覚上人の発心譚
として 『源平盛衰記』 に語られているのだが、その全てを事実として素直に信じてしまうわけにはいかない。というのも、文覚上人については、四十三歳の母が長谷寺の観音からチビの羽を賜る夢を見て孕はら
んだ子であるとか、厳冬の那智の滝に打たれる荒行で息絶えたところを不動明王の使いである童子によって救われたとか、奇譚きたん
による粉飾が少なくないからである。十八の時横恋慕した人妻をあやめてしまったという話は事実であっても、義朝のしゃれこうべまで持ち出してくる男である。用心すべきことは幾らでもあろう。 とはいえ、どうにもならぬ葛藤かっとう
の果てに夫の身代わりになって自ら討たれるという感動的な貞女ていじょ
の物語は、それが文覚の発心を招来し、頼朝の挙兵をうながして、ついには平家を滅亡に至らしめるという大きな時代の物語の中に置かれることによって、後世あまねく知られることとなったのである。
『源平盛衰記』 はもとより、謡曲・小説・映画にもたびたび材を提供している。 下鳥羽の恋塚寺こいづかでら
なども、そうしたことと無関係ではあるまい。鳥羽街道に面した茅葺かやぶき
の風情のある寺門をくぐって小さな境内の奥まで進むと、文覚上人が袈裟御前の首を埋めてその霊を弔ったという宝篋印塔ほうきょういんとう
がある。これが寺号のもとになった恋塚である。その傍らには文覚上人が名号を刻んだと伝える石卒塔婆そとば
(板石) が立っている。また、袈裟御前、盛遠、渡の木像三体も安置されている。 たとえ袈裟御前の悲劇は知らなくとも、何やらロマンティックな恋塚寺の名に惹かれて、今も多くの参拝者があるという。 鳥羽街道を少し北に上った上鳥羽の浄禅寺じょうぜんじ
の門前にも、袈裟御前の供養塔とする五輪塔と恋塚碑があって、古く江戸時代の頃から恋塚寺と根元寺を争っていたことが 『都名所図絵ずえ
』 に見えている。それによれば、浄禅寺の恋塚はもと鯉塚であったという。このあたりにはかつて大きな池があり、大鯉が人を取って食うので里人が退治して埋めた。その鯉塚がいつの間にか恋塚になったという。 |