安元
二年 (1176) 後白河院と清盛を結び付けていた建春門院けんしゅんもんいん
が崩ほう ずると、日本の半ばを領したばかりか日宋貿易でも巨万の富を築いて栄華を誇った平家にも、一抹の不安が兆してくる。翌年には後白河院の近臣や俊寛しゅんかん
らによる清盛追討の謀議 (鹿しし
ヶ谷たに 事件)
が発覚する。こうした動きに対し、治承じしょう
三年 (1179) 十一月に清盛はクーデターを決行して後白河院を鳥羽殿に幽閉し、院政を廃して平家による軍事独裁を強める。しかし、反平家の勢いは止まらない。翌年四月には後白河院の代三皇子以仁もちひと
王が源頼政よりまさ の誘いを受けて反乱平家追討の令旨を発するに至るのである。 こうした時代の気運に乗じて、伊豆に流されていた清和せいわ
源氏げんじ の嫡流頼頼朝に決起を促した人がいた。
「天性不敵てんせいふてき 第一の荒聖あらひじり
」 と呼ばれた文覚上人もんがくしょうにん
である。こ文覚が十八歳の時、上西門院じょうさいもんいん
(鳥羽天皇の第二皇女) の北面ほくめん
の武士を捨てて出家を果たした機縁は、新妻袈裟けさ
御前への激しい恋の妄執もうしゅう
があった。 それは春も若葉の頃、摂津せっつ
渡辺の橋供養くよう の日であった。紺村濃こんむらご
の直垂ひたたれ に黒糸縅くろいとおどし
の腹巻をつけ、長刀なぎなた を左の脇に挟んで、さっそうたる若武者ぶりの遠藤武者盛遠もりとお
は、郎党どもを引き連れて、その日の奉行をつとめていた。無事に橋供養も終わって見物衆が散り始めた時、十六、七の美しい女が輿こし
に乗ろうとしているのを見て、盛遠は思わず息をのんだ。激しい一目ひとめ
惚ぼ れであった。あれは誰か、いかなる人の妻子かと跡をつけてみれば、盛遠と同じ渡辺一門に連なる渡わたる
という者の家に入っていく。してみると、あれが叔母衣川ころもがわ
の娘かと気づいた盛遠はつのる恋心をどうしようもなく、日夜思い惑った。 盛遠は早くに父母をなくして、叔母の衣川に我が子のように育てられた。その叔母に袈裟という娘がいた。盛遠は幼なじみの袈裟を妻にしたいとそれとなく申し入れていたにもかかわらず、叔母は、小さい時から人を人とも思わぬ暴れ者で、いかつい容貌、しかも頼る者とてない盛遠よりもと、一門の渡のもとに嫁がせてしまった。それから三年見ぬうちに、袈裟は誰の妻かと見紛みまが
うほど美し女になっていたのだった。 |