天皇は涙に暮れられる毎日であったが、清盛の権勢をはばかって、お側に近づく人もなかった。宮中には憂鬱
な雰囲気がたちこめた。ある秋の夜、小督が嵯峨さが
の辺りにいると聞き及ばれた天皇は、かって小督の琴の相手に笛の役をつとめたことのある源仲国なかくに
を召されて、小督の行方を捜せと命じられた。だが、小督の隠れた所は嵯峨のいずことも知れない。どうしたものかといろいろ思案しているうちに、月の明るい夜だから、小督は天皇のことを想い出されて琴を爪弾つまび
くやも知れぬと思い当たった。仲国は琴の音を頼りに探すしかないと、天皇から御書ごしょ
を受け取り、特別に許されて官馬にまたがった。 八月半ばの月の夜だった。釈迦堂 (清涼寺せいりょうじ
) から法輪寺ほうりんじ
へとあてもなく嵯峨野をさ迷った仲国が亀山の近くまでやって来たとき、一群れの松があるあたりから、かすかに琴の音らしきものが聞こえてきた。峰の嵐か、松風か、尋ぬる人の琴の音か、と馬を速めてみれば、紛まが
うことなく小督が爪弾く音である。それも 「想夫恋そうふれん
」 の曲だと分かった。小督の思いを察した仲国が腰の横笛を抜いて音を合わせ、しばらく伴奏してから門を叩けば、はたと琴の音がやんだ。 仲国が 「内裏だいり
より仲国が御使いにまいりました。開けてくだされ」 と声を張り上げると、しばらくして、幼くかわいげな女房が戸口から顔だけを見せて 「お間違えでしょう」 と言う。それにもかまわず、仲国は仲へ押し入って
「天皇はあなた故に思い煩わずら
われて、御命もすでに危うく見えます」 と女房に御書を渡したところ、小督もようやく納得したらしく、仲国に御返事の手紙と引き出物を与えた。さらに仲国が手紙に添えて口伝くちづ
ての返事も賜りたいと申し上げると、小督は 「入道相国があまりにも恐ろしいことを言っていると聞き、内裏から逃げ出してきました。明日より大原の奥に出家しようと思い、昔の名残に手馴れた琴など弾いておりましたが、そのために見つかってしまいました」
と涙を流して言う。 仲国は 「髪を下ろしてはなりません」 と小督に言い置き、見張りの者を残して、いったん宮中に取って返した。 暁あかつき
近くにもかかわらず、天皇はまだ昨夜の御座所ござしょ
におられて、小督の返書をご覧になるや、 「今すぐ連れて参れ」 との御沙汰ごさた
である。仲国は、清盛に漏れ聞こえることを危惧きぐ
しながらも、密かに小督を宮中に連れ戻した。 人目につかぬ所に忍んで天皇と逢瀬おうせ
を重ねた小督は姫宮までもうけたが、やがてそれも清盛の知るところとなって捕えられ、東山ふもとの清閑寺せいかんじ
にて心ならずも尼にされてしまった。小督は泣く泣く嵯峨に戻って、しばらくそこに住んだが、のちに大原の別所に籠ったという。時に二十三歳であった。 |