小督の危難を救うことが出来なかった高倉天皇は、治承
四年
(1180) に譲位せしめられ、かわって清盛の孫に当る安徳天皇が即位されると、その翌年、二十一歳の若さで悲嘆のうちに崩御された。
『源平盛衰記げんぺいじょうすいき
』 は、天皇が病の床に就かれたのは恋の病であり、清盛の悪行のいたらしめたところであったと伝えている。天皇は小督が心ならずも尼にされたという清閑寺を懐かしく思われたのか、その御遺言には
「朕ちん
をば必ず清閑寺の納めよ」 というものであった。 清閑寺は五条バイパスが東山を越えようとする少し手前にある。清閑寺に向かう石段を登るとすぐに高倉天皇陵があり、その傍かたわ
らに小督の墓がある。山の端に作られた清閑寺の小さな境内にも、小督供養塔と称する宝篋印塔ほうきょういんとう
が残されている。眼下に、平家一門の邸宅が立ち並んだ六波羅がのぞめる。 小督伝説の地としては、嵯峨野が有名である。観光客の姿が絶えない渡月橋とげつきょう
の北詰に、車折くるまざき
神社の嵐山頓宮とんぐう
があって、その入り口にあたるところに、石の欄干だけを残した
「琴こと
きき橋」 がある。仲国が小督の琴を聞きつけた所という。そこより少し西に歩くと、五輪塔を建てた小督塚がある。この辺りに小督が隠れ住んでいたという。 小督の悲恋は謡曲
『小督』 などによって喧伝けんでん
されて嵯峨野の名所になっていたから、芭蕉の 『嵯峨日記』 にも、当時、小督屋敷と称するものが三ヶ所も伝承されていたと記されている。今も常寂光寺じょうじゃっこうじ
には高倉天皇より賜ったと伝える車琴くるまごと
を残すし、桂川対岸の法輪寺にも小督供養塔が立っている。 祇王や小督の物語は、美しさ故に清盛という権力者にその人生を翻弄され、ついには仏にすがるよりなかった女たちを語る事によって、奢おご
る平家の姿を祇園精舎ぎおんしょうじゃ
の鐘の響きの中に浮き立たせるものである。
『平家物語』 が木曾義仲の挙兵を語り、清盛を熱病にもだえ死にさせるのは、小督の物語のすぐあとである。奢れる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし・・・・平家は美しく滅びる為にこそ、奢りたかぶたなければならなかったのかもしれない。 |