仁安
三年 (1168) 後白河院の代七皇子憲仁のりひと
親王が即位して、高倉天皇となられた。母は清盛の妻時子ときこ
の妹に当る建春門院滋子けんしゅんもんいんしげこ
であった。この即位に先立って、清盛が大病を得て出家するという事態になったために、院政の混乱を恐れた後白河院は清盛が生きているうちに憲仁親王の即位を実現しようと急に思い着かれたらしい。幸い、清盛の病は回復し、出家はしたものの
「入道にゅうどう 大相国だいしょうこく
」 を称して、いっそう権勢を強めていった。高倉天王即位以降、平家にあらずんば人に非ずといった一門の繁栄であったが、清盛はさらに我が娘を後宮こうきゅう
に入れようと計った。承安じょうあん
元年 (1171) 、妻時子がなした徳子とくこ
(のちの建礼門院けんれいもんいん
) の入内がなる。この時徳子は十七歳であった。高倉天王はわずか十一歳の少年であったから、すぐさま正常な夫婦関係が持てたとも思われず、ようやく徳子が言仁ときひと
親王 (後の安徳あんとく
天皇) の懐妊をみたのは、七年後のことであった。 その頃から、天皇は姉さん女房の徳子から他の女に目を移すようになる。徳子に仕えていた女官の召使に葵あおい
の前という少女がいた。思いがけなくお側そば
に使えることがあって以来、天皇はしばしば葵の前を召し出されたが、やがてそれが人々の噂に上るようになると、世間体を憚られた天皇は心ならずも葵の前を遠ざけられて近臣の大納言だいなごん
藤原隆房たかふさ
(妻は清盛の娘) を通じ、平兼盛かねもり
の古歌を葵の前に賜った。 |