その年の秋の夜のことだった。灯りをかすかに立てて母子三人が念仏しているところへ、竹の網戸をほとほとと打って訪ねて来た者があった。昼にさえ人の来ない山里なのに、こんな夜更
けになって訪ねて来るのは魔性ましょう
のものかと、六字ろくじ の名号字みょうごう
を唱えつつ竹の網戸を開いてみれば、思いもよらぬ仏御前であった。 「これは、夢かうつつか」 と驚く祇王に、 「一時の富貴ふうき
をおごって来世を知らぬことの悲しさに、今朝、都を脱け出して参りました」 と言って、仏御前がかぶりものを取れば、すでに尼の姿である。仏御前は 「これまで自分の犯した罪をお許し下さい。これよりは命のかぎり念仏して、極楽往生の念願を果たしたいと存じます」
と涙ながらに訴えた。祇王も 「あなたがこれほど思っておられたとは夢にも知りませんでした。これで日ごろの恨みも晴れました。ともに往生を願いましょう」 と応えて、四人の尼は嵯峨の山里にこもり、みな極楽往生を遂げたという。 清盛に寵愛された白拍子の名手が四人一緒に出家し、その先後はあっても、みな往生の思いを遂と
げたというのは、源平争乱の血なまぐさい世の中に驚きをもって受け止められた。後白河院も法住寺殿に建立された持仏堂じぶつどう
(長講堂) の過去帳に、神武天皇から安徳天皇まで歴代の天皇名を連ねたあと、 「源義朝・清盛入道・義行
(義経) ・為朝・為義」 と加えた次に 「閉・祇王・祇女・仏御前」 の名を残している ( 「閉」 は 「刀自」
「とぢ」 とも表記される) 。なお、昭和五十四年 (1975) に発見された滋賀県甲賀こうか
市信楽しがらき 町玉桂ぎょくけい
寺の阿弥陀如来像 (鎌倉初期) の胎内から発見された 「結縁交名けちえんきょうみょう」
の中にも 「女祇王」 の名が見えている。祇王が実在の人物であったことは疑いなかろう。 |