祇王が草庵を結んだのは、
『源平盛衰記』 によれば、嵯峨の往生院である。往生院はもと山の上にあったが、中世に廃絶して、その麓
に尼寺だけが残り、それがいつしか祇王寺と呼ばれるようになった。それも明治の初めには廃寺となったらしい。今の祇王寺は、明治二十八年、京都府知事だった北垣きたがき
国道くにみち が世紀の大工事とうたわれた琵琶湖びわこ
疎水そすい の竣工を感謝して、自らの別荘を移して再建したものである。竹林と楓かえで
の森に埋もれるように佇たたず
む茅葺かやぶき のささやかな本堂には、清盛と四人の尼の小さな木像が安置されている。境内の一隅には、清盛を供養する五輪塔と清盛に翻弄ほんろう
された女たちの墓とされる宝篋印塔ほうきょういんとう
がひっそりと立ち、平家女人伝説の地を訪ねる観光客の姿が絶えない。 祇王の伝説地で今一つ忘れてならないには、京都の隣滋賀県野洲やす
市に伝承される祇王の生まれ故郷である。ここには、明治中期から昭和三十年まで祇王ぎおう
村があった。その地 (安野市中北) には祇王寺ぎおうじ
があって、その 「祇王寺略縁起」 によると、祇王の父は江部庄えべのしょう
の庄司しょうじ 橘時長ときなが
であったが、保元ほうげん の乱
(1156) で討死にした為に、妻の刀自は仁安じんあん
三年 (1171) 、祇王が十六歳の時都に上り、姉妹を白拍子にしたという。清盛の寵愛を受けた祇王は、田に水に困窮している江部庄に野洲川の湧水を引いて用水を通じて欲しいと懇願した。その願いが容れられて、今も土地の人が祇王井ぎおうい
川と呼ぶ三里 (約十二キロ) の用水路が完成した。承安じょうあん
三年 (1173) のことという。北垣国道はこの古事を知っていて、世紀の大工事の完成を祇王に祈願していたのである。建久けんきゅう
元年 (1190) 祇王が嵯峨の往生院で三十八歳をもって没した後、祇王井川の恩恵にあずかった村人たちの手で一宇いちう
が建立された。それが祇王寺であるという。ここにも、刀自・祇王・祇女・仏御前の木像と供養塔が残されている。祇王井川の顕彰に何の関係もない仏御前の木像まで安置しているのは、嵯峨の祇王寺に同じく
『平家物語』 の伝承によったものだろう。どうせなら、祇王井川つくってくれた清盛の木像を置くべきだったが、それは見当たらない。 なお、 「祇王寺略縁起」
は祇王の生まれを仁平にんぺい
三年 (1153) とするが、それなら祇王が京にのぼったのは十九歳の時でなければならず、これでは 『平家物語』
が二十一歳の時に出家したととする話と矛盾する。 そうした詮索せんさく
はともかく、土地の人が 『平家物語』 に哀切なエピソードを残して消えた白拍子の名を一時は我が村の名として誇り、村内に祇王碑まで建立して顕彰したことは確かであっる。たとえ伝承に錯誤があったとしても、今もなお豊な水をたたえている祇王井川の恩恵に感謝する気持に錯誤はなかったのである。 |