建
春 門 院 滋 子 と 二 位 殿 時 子 女 堂上平家に咲いた花二輪 |
2012/11/08 (木) 平家絶頂期をもたらした滋子 |
永万
元年 (1165) 六月、二十三歳になられた二条天皇は病のため皇位を二歳の順仁よりひと
親王に譲られた。これが六条天皇で、翌年十月には六歳の憲仁親王が東宮とうぐう
(皇太子) に立てられた。立太子りつたいし
の儀式では清盛が東宮大夫とうぐうだいぶ
をつとめ、清盛の嫡男重盛の妻が乳母に選ばれた。 後白河院の滋子への寵愛も深まり、仁安二年 (1167) 正月には
「女御」 を賜たまわ っている。その翌月、清盛はついに従一位太政大臣を拝命する。 仁安三年
(1168) 二月十一日、前年の五月に太政大臣を辞任していた清盛は、重い病に冒されたことから長寿を願って出家し、初め
「清蓮じょうれん 」 のちに
「静海じょうかい 」 と名乗った。これ以降、清盛は
「入道大相国にゅうどうだいしょうこく」
と呼ばれるようになる。同じく、妻の時子も出家している。清盛の重病を聞いて、院も朝廷も政情が不安定化するのを怖れ、八歳になった憲仁親王の即位を急いだ。十九日には五歳の六条天皇を譲位せしめ翌日高倉天皇の即位となった。これに伴い、滋子も女御から皇太后となり、翌年四月には
「建春門院」 の院号を受けている。 滋子が入内じゅだい
し、憲仁親王をもうけたことで有頂天になったのは、院の近臣として仕えていた弟の忠時だった。あれこれ奇策を用いて巧妙に立ち回ろうとする人だったが、それだけに失敗も少なくなかった。憲仁親王誕生のときには、二条天皇にまだ子供がおられなかったことから憲仁親王を東宮に立てようと謀はか
ったことが露見して、右小弁うしょうべん
の官職を解かれ、しばらく出雲へ流されている。しかし、憲仁親王が六歳で東宮になり、八歳で即位して天皇になると、時忠は天皇の外戚がいせき
をかさにきて叙位じょい や除目じもく
を思いのままにした。 後白河院と清盛を結び付けていたのは滋子であった。その滋子が 「建春門院」 の院号で呼ばれた時代こそが、平家一門の絶頂期であった。時子と滋子は燦然さんぜん
と咲き誇った二輪の花だった。 時忠が 「この一門にあらざらむ人は、皆人非人にんぴにん
なるべし」 と豪語した話は有名である。この背景には 『平家物語』 が 「一門の公卿くぎょう
十六人、殿上人でんじょうびとう
三十余人、諸国の受領ずりょう
・衛府えふ ・諸司しょし
都合六十余人なり。世には又人なくぞ見えられける」 と記す現実があった。当時の都人は、衣裳の着こなしや烏帽子えぼし
の折りようまで六波羅模様よう
を好んでまねたという。 清水寺のふもと一帯に広がる六波羅の地は、忠盛の池殿いけどの
を中心に整備された平家の拠点であり、忠盛・清盛・重盛の墓もここにつくられた。池殿は後妻の池の禅尼ぜんに
に譲られ、池の大納言だいなごん
頼盛よりもり が受け継いだ。清盛は池殿の北に泉殿を造営し、弟の教盛のりもり
は六波羅惣門ろくはらそうもん
脇に、脇殿わきどの を、長男の重盛は小松谷に小松殿をつくるなど、平家一門の邸宅が並び、その数は三千二百のも及んだという。現在も六波羅の地には門脇町・池殿町などの地名を残している。この六波羅のすぐ南に後白河院の御所となっていた法住寺ほうじゅうじ
殿があった。東西四百メートル、南北六百メートルに及ぶ広大な地で、その一画に後白河天皇法住寺陵が残されている。この法住寺殿の西隣に清盛の造営した蓮華王院れんげおういん
(三十三間堂) があった。 |
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著:高城
修三 発行所:京都新聞出版センター ヨリ |
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