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── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
建 春 門 院 滋 子 と 二 位 殿 時 子 女
堂上平家に咲いた花二輪

2012/11/08 (木) きしみはじめた院と平家の関係

滋子が建春門院を称した年から、後白河院は女院を伴って毎年のように清盛の別荘がある福原に行幸し、承安四年 (1174) には、さらに足をのばして厳島神社まで行幸している。清盛は建春門院の力を頼んで、時子が生んだ徳子の入内をはかった。そして承安元年 (1174) 十二月十四日、待賢門院の例にならい、徳子を後白河院の養女として、女御として高倉天皇の後宮に入れることに成功する。ついに清盛は天皇の外戚になり、妻の時子は従二位を贈られて 「二位殿」 と呼ばれるようになる。次に清盛が目ざしたのは天皇の外祖父となることである。しかし、徳子は十七歳になっていたが、天皇はまだ十一歳である。すぐに皇子の誕生を見るわけにはいかない。
そんな時建春門院が倒れ、安元二年 (1176) 七月八日には帰らぬ人となった。建春門院が後白河院と清盛を結び付けていた時代は、両者の絶妙なバランスによって平和と安定が保たれていた。その建春門院が亡くなったのである。次第に院と平家の間がきしみはじめる。後白河院の近臣による鹿ヶ谷の陰謀が露見するのは、建春門院の死から一年としないうちだった。
清盛は武力を背景にした専制を強めながらも、不安だった。皇子誕生を祈願して、安芸の厳島神社に早舟を出して月詣まで始めた。そんな甲斐もあってか、二ヶ月ほどで徳子の懐妊となり、治承二年 (1178) 十一月十二日、産所とされた六波羅の泉殿で無事に皇子を出産した。皇子の乳母には時忠の妻が選ばれた。その翌月には、清盛の要請によって、早くも東宮に立てられた。儀式は六波羅の御所で行われ、時子の生んだ宗徳が東宮大夫となった。
誕生から一年ほどたったころ、東宮言仁親王が清盛の私邸を訪ねた。この時の清盛の感激は格別で、一日中東宮を抱いて放さなかった。清盛がたわむれに教えたとおりに東宮が指につばをつけて明障子に穴を空けられるのを見て、清盛は感涙にむせび、 「この障子を蔵の奥にしまっておけ」 と命じたという。言仁親王の存在に平家の運命がかかっていたのである。
しかし、治承三年 (1179) 七月には嫡男の重盛が病死する。その年の十一月、清盛はクーデターを敢行し、対立を深めていた後白河院を鳥羽殿に幽閉して軍事独裁政治を強行する。しかし、もう時代の歯車は止められなかった。
翌年には以仁王の反乱が起き、源平争乱へと突き進んでいく。治承五年 (1181) 、ついに清盛が没すると、あとは壇ノ浦で二位殿時子が安徳天皇を抱いて海に飛び込むまで、わずか三年である。
著:高城 修三  発行所:京都新聞出版センター ヨリ