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── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
建 春 門 院 滋 子 と 二 位 殿 時 子 女
堂上平家に咲いた花二輪

2012/11/07 (水) 時子を後妻にした清盛の幸運

平清盛の目ざましい栄達を支えたのは、祇園ぎおん 女御にょご を初めとする美しき女人たちであった。清盛もまた、武力や財力による奉仕のみならず細やかな心づかいで、待賢門院たいけんもんいん待賢門院びふくもんいん など 「治天ちてん の君」 に寵愛ちょうあい された美貌の女人たちの気持をつかんでいった。さらに清盛にとって幸運だったのは、平時信の娘時子ときこ を後妻に迎えたことだった。
時信は清盛と同じ桓武かんむ 平氏ではあるが、桓武天皇の皇子?原かつらばら 親王の子高棟たかむね 王の系譜に連なる堂上どうじょう 平氏で、地方に土着せず、中央で公卿くぎょう になる者が多かった。これに対して清盛は?原かつらばら 親王の子高見王の子に当たる高望たかもち 王の系譜に連なる伊勢平氏である。時信には二男四女がいて、その長女が清盛の妻となった時子で、年の離れた妹に、後白河院の女御となった滋子しげこ (建春門院けんしゅんもんいん) がいる。残り二人の妹も、清盛の子である重盛しげもり 宗盛むねもり の妻となっている。
時子の生年ははっきりしないものの、時信の弟信範のぶのり の日記 『平範記ひょうはんき 』 に、仁安にんあん 三年 (1168) に清盛と時子が出家したとき五十一歳と四十三歳だったと記しているのを信じれば、時子は大治だいじ 元年 (1126) の生まれということになる。時子は久安きゅうあん 三年 (1147) に宗盛を生んでいるので、その一、二年前、おそらく二十歳の頃に清盛と結婚したのであろう。清盛の三男になる宗盛に続いて知盛とももり徳子とくこ重衡しげひら が生まれている。
時子の腹違いの妹で年も十六歳下だった滋子は、後白河院の姉である上西門院じょうさいもんいん (統子) に仕え、小弁局しょうべんのつぼね と呼ばれていた。後白河院も同じ御所に住まわれていたことから、御目にとまったようだ。滋子は後に建春門院と称するが、 『平家公達きんだち 草紙』 は 「建春門院、御心いとうるはしく、かしこくおはしましければ、後白河院なのめならずおぼしめされける」 と、その寵愛ぶりを語っている。後白河院が好まれた建春門院の美質は、美貌だけでなく、心の優雅さと聡明そうめい さを兼ね備えていたところにあったのだろう。
滋子は永暦えいりゃく 二年 (1161) 九月三日に憲仁のりひと 親王 (高倉天皇) を出産し、時子が乳母をおおせつかった。憲仁親王誕生の十日後、前年八月に参議に昇進した清盛は中納言ちゅうなごん に栄進している。参議になった三ヵ月後に、清盛の擁護者であった美福門院が亡くなっていたから、今や時子と滋子の姉妹は清盛にとって欠かすことに出来ない存在となったのである。
著:高城 修三  発行所:京都新聞出版センター ヨリ
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