知恵光院
通を今出川いまでがわ 通から少し北に上れば、首途かどで
八幡宮の石鳥居が見えてくる。路地風の参道を入っていくと、古墳を想わせる小さな丘の上に社殿が建っている。 この辺りは金売吉次の屋敷があった所という。鞍馬を抜け出した牛若丸が奥州に下る為に吉次の屋敷で落ち合った時、屋敷内にあった内野うちの
八幡宮に道中安全を祈願したところから、いつしかそれを首途八幡宮と呼ぶようになったという。神社の境内には少し前まで 「首途の井」 と称するものもあった。 吉次その人が伝説的な人物だから真偽のほどは尋ねようもないが、
『義経記』 にはまた違った話があって、牛若丸と吉次は粟田口の十禅寺で落ち合った事になっている。そこから東に向かった牛若丸一行が東山越えの坂道にさしかかった時、向うから来た平家の武士余市なる者が雨水を蹴上げたことから、その無礼を怒った牛若丸は余市主従を斬り捨ててしまった。これが今に残る
「蹴上けあげ 」 という奇妙な地名の由来になっている。この伝説を受けて、峠を越えた山科には血洗ちあらい
町なる気味の悪い地名があって、付近には 「余市首洗井くびあらい
」 とか 「牛若丸腰掛石」 の伝承地がある。 鞍まで遮那王と名を変えていた牛若丸は、奥州下りの途中、近江鏡宿かがみじゅく
で元服し、源九郎義経を名乗る。九郎は義朝の九男であることを示す。それから六年、平家追討の兵を挙げた頼朝と黄瀬川きせがわ
の陣営で対面するまで、義経は奥州の秀衡の下にあって武略を磨いたと思われるのだが、 『義経記』 の作者はそれだけでは後の軍事的天才ぶりを説明できないと考えてか、義経を一時京都に立ち帰らせる。 鬼一法眼おにいちほうげん
の秘蔵する六韜りくとう の兵書を手に入れるためだった。 鬼一法眼は一条戻橋もどりばし
のあたりに住んでいた陰陽師おんみょうじ
で、文武二道の達人であったという。義経は鬼一法眼の屋敷に入り浸って幸寿前こうじゅのまえ
なる女と親しくなり、その手引きで法眼の末の姫君と契りを結んで秘蔵の兵書を盗み出させ、それを一字も残さず読み通してしまう。目的を果たした義経が去ってしまうと、姫君は跡を慕って嘆き死んだという。この伝説は、のちに歌舞伎
『鬼一法眼三略巻さんりゃくのまき
』 に材を取られて、広く流布した。 鞍馬へ到る少し手前の貴船口きぶねぐち
に、妖しく年をへた巨木がある。その下に、鬼一法眼の墓と伝える石碑と小さな祠がひっそりとうずくまっている。また、鞍馬寺の山門をくぐって義経供養塔に向かう賛同の途中にも、鬼一法眼社がある。文芸作品が伝説にまでなるには、こんな具体的な遺物がどうしても必要だったに違いない。 義経は鞍馬天狗の兵法に加えて鬼一法眼の六韜の兵書まで手に入れた。あとは弁慶の登場を待つばかりである。 |