〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-[』 〜 〜
── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
常 盤 御 前
牛若丸を生んだ宮中一の美女

2012/12/01 (土) 弁慶を打ちすえ、君臣の契り

五条大橋の西、五条通のグリーンベルトに笛を手にした牛若丸と弁慶の石像が立っている。御所ごしょ 人形風のふっくらした顔立ちとむっちりした手足は、同様の世界から抜け出してきたように愛くるしくて、今や京都の名所の一つになっている。しかし、伝説の世界において牛若丸と弁慶は初めから五条橋で出会ったのではない。
 『義経記』 によれば、夜な夜な人を斬って九百九十本の刀を奪った弁慶が、五条天神に千人斬りの祈願をして獲物を待ち伏せていると、黄金の太刀を き、笛を吹きながら義経がやって来る。すでに天狗の兵法と六韜の書を読んだ義経だから、剛の者の弁慶がやにわに打ち掛かっても、ひらりひらりと鬼神のように飛んで、ついにかなわず、取り逃がしてしまう。つまり、牛若丸と弁慶の最初の出会いは五条天神だったのである。
その翌日は清水観音の縁日であった。昨夜の若者も参詣するに違いないと睨んだ弁慶が門前に待ち構えていると、夜も更けて、清水坂きよみずざか のあたりに例の笛の音が聞こえてきた。そこで弁慶は一太刀合わせる。勝負はつかず、なおも場所を変えて清水の舞台に出るが、ここで弁慶は打ち伏せられれてしまい、君臣の契約を交わして義経に従うのである。このあと平家に追われて、義経主従は奥州に下ることになる。
『義経記』 の義経と弁慶は五条天神と清水寺の二所で立ち会った事になっている。これが御伽草子おとぎぞうし 『弁慶物語』 では、清水寺からさらに戦いの場を移して五条の橋に出たと改変され、それが私たちになじみの伝説へと変貌していったのである。彼岸と此岸を結ぶ橋の上は、その最期までを共にした永遠の主従が出会う場所として、これ以上のものはなかったであろう。ぴたりと型におさまると、そこで伝説は固定する。
ところで、義経と弁慶の立ち会った場所を伝説の中に拾ってみると、五条天神、五条の橋。清水寺など、いずれも松原通から清水寺に向かう山道沿いにある。二人が再度出会った日が清水観音の縁日であったことも重ね合わせて考えれば、これらの伝説の創作が観音信仰と深く結びついていることをうかがわせる。常盤御前が三人に幼子を連れて大和に下る前に無事を祈願したのも清水観音である。
さらに、伝説に登場する 「五条の橋」 は松原通が鴨川を渡る所に架けられた橋で、これは現在の松原橋に当る。五条大橋は、その南の六条坊門通に架かっていた橋で、豊臣秀吉の時に橋が付け替えられ、名称の変更がなされたのである。牛若丸と弁慶の石像が立てられたときも設置場所について論争になったのだが、 「松原」 橋のたもとに牛若丸と弁慶は立ったのでは何となくイメージに合わない。やはり 「五条」 の大橋でなければならないというわけで、歴史の事実には目をつぶって伝説のイメージに従ったのである。
義経伝説は何と言っても日本民族が生んだ英雄伝説の集大成である。日本武尊やまとたけるのみこと が神話時代きっての英雄なら、源義経は歴史時代最高の英雄であったといえよう。だから、日本武尊が死してのち白鳥になって西の彼方目ざしたように、奥州平泉の衣川ころもがわ の館を脱出した義経が津軽から蝦夷えぞ を経て大陸に渡り、ジンギスカンになったなどという荒唐無稽こうとうむけい な伝説まで、まことしやかに語られてきたのである。さらに付け加えれば、両者とも母をうということがなく、もっぱら強くたくましい父にあこがれていることであろうか。
著:高城 修三  発行所:京都新聞出版センター ヨリ