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── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
常 盤 御 前
牛若丸を生んだ宮中一の美女

2012/11/06 (火) 平治の乱、義朝討たれる

平治へいじ 元年 (1159) は、源平合戦のヒーロー源義経 (牛若丸) が誕生した年である。その年も押し迫った十二月二十六日、父の義朝は六条河原の合戦で平清盛が率いる平家軍に敗れた。いわゆる平治の乱である。再起を期して、義朝は年長の義平よしひら朝長ともなが頼朝よりとも の三子を伴い、二十余騎で東国に向かった。
都を落ちるとき、常盤御前ときわごぜん のもとにいる幼い三子を都に残す事が気がかりであった義朝は 「合戦に敗れて行き先も知れずに落ちていくが、時期が来れば迎えに行くから、それまで深山にでも身を隠しておけ」 と金王丸に伝えさせた。突然の事態に、常盤御前は目の前が真っ暗になったが、それでも 「どちらへ落ちて行かれるのか」 と問えば、金王丸は 「譜代ふだい御家人ごけにん を頼って東国へと聞いております」 と答えたのだった。
常盤御前は近衛天皇の皇后九条院 (藤原呈子ていし ) に仕えていた。宮中より集めた千人の美しい女の中から百人を選び、そこから十人を選んだ中から一人を選んだ美女であったという。それを義朝が見初めて、すでに三人の子をなしていた。今若いまわか 七歳、乙若おとわか 五歳、牛若は今年生まれたばかりの一歳で、常盤御前はまだ二十二歳の若さであった。
常盤御前と子供たちは洛北の紫竹しちく に住んでいたらしい。このあたりには義朝の別荘があったとする伝承があり、 「牛若町」 の地名も残っている。その一画、住宅街にぽつんと残された畑の中に 「牛若丸誕生井」 と称するものがある。石碑がなければ野井戸と見間違っても不思議ではない代物だが、この誕生井はすでに室町時代から知られていたらしく、牛若町の地名も、この伝説に由来している。井戸の近くには松の木が目印になっている胞衣えな 塚もある。また、牛若町のすぐ北にある常徳寺には常盤御前が牛若丸の安産を祈願したと伝える常盤地蔵、近くの光念寺には常盤御前の守り本尊と称する腹帯地蔵がある。しかし、これらの伝承を保証するものとしては、 『異本義経記』 に、牛若丸が 「洛北紫竹ニテ生ル」 と伝えた一文ばかりである。
年が明けて、正月五日の朝だった。金王丸が尾張おわり から駆け上って来て、 「この三日の暁に長田おさだ 忠致ただむね の裏切りによって義朝様が討ち取られました」 と涙ながらに告げたのである。義朝と行動を共にしていた義朝の乳母子めのとご である鎌田正清まさきよ も討たれた。次男の朝長も矢傷を悪化させて落命し、長男の義平ものちに近江石山寺で捕えられて六条河原で首を斬られた。
著:高城 修三  発行所:京都新聞出版センター ヨリ
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