〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-[』 〜 〜
── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
常 盤 御 前
牛若丸を生んだ宮中一の美女

2012/11/06 (火) 常盤を愛人にした清盛

二月九日、頼朝が尾張で捕らわれの身となって六波羅に連行された。常盤御前は清盛の追及を逃れようと、暗くなるのを待って三人の子供を連れ出した。その足で日ごろ深く信仰している清水寺の観音に参り 「私のことはともかく、子供の命だけはお助け下さい」 と夜もすがら祈念したが、そこは六波羅も近い所ゆえ、まだ夜も明けぬうちに、寒さに凍った道を伏見の叔母おば のもとへと急いだ。八つになった今若を先に立たせて乙若の手を引かせ、懐には幼い牛若を抱いていた。常盤御前の足は傷つき、衣の裾は血で染まった。ようやく伏見にたどり着いたものの、叔母は謀反人むほんにん の妻子に会おうとせず、やむなく常盤御前は大和やまと 宇陀うだ龍門りゅうもん にいる伯父おじ のもとへと落ちて行った。
この逃避行は京都から奈良への街道沿いに幾つもの伝説を残した。 「常盤雪除けの松」 は深草まで来た母子が降りしきる雪を避けたところという。罪人をかくまうわけにはいかぬと伏見の叔母にすげなくされて、途方に暮れた母子がのど をうるおした所という 「常盤の井」 も、かって伏見区常盤町に存在していたが、近年の道路改修工事によって失われてしまった。
六波羅に捕えられた頼朝はいけ禅尼ぜんに によって命を救われる。池の禅尼は清盛の継母に当る人だが頼朝の顔かたちが早世した我が子家盛に似ている事から清盛に助命を嘆願したのだった。この事が、のちに牛若丸の命をも救う事になる。
清盛は常盤御前の三人の男子を探すために常盤の母をからめとって拷問にかけた。龍門に隠れていた常盤御前はそれを伝え聞いて、 「母の命を助けようとすれば、三人の子供は斬られてしまう。かと言って、子供を助けようとすれば、老いた母を失うことになる」 と思い悩んだ末に、三人の子を連れて六波羅に参上した。
清盛に対面した常盤御前は、子の親を思う気持、子を思う親の気持をじゅんじゅんと説いて、「まず母をゆる し、次に自分を殺して、それから子供をどうになとしてください」 と懇願した。その容貌の美しさに かれた清盛は、臣下の者たちの反対を封じ、 「兄の頼朝を池の禅尼の願いによって助けたのに、幼い者たちを殺すわけにはいかぬ」 と理屈をつけて、子供の命と引き換えに常盤御前を愛人にしてしまった。頼朝の場合といい、常盤御前の場合といい、この清盛の温情がのちに平家滅亡につながっていく。
常盤御前は清盛との間に一女をもうけたが、やがてその寵愛ちょうあい が薄れると、時の大蔵卿藤原長成ながなり の妻となった。常盤御前にとっては目の前の現実がいつも全てなのであろう。母や子のことはともかく、死んだ義朝への貞節などは出る幕さえないのである。
三人の子供たちの行く末はどうなったのだろうか。今若は観音寺に入って学問をし、十八歳で受戒して出家、禅師の君 「全済ぜんさい 」 と名乗ったが、名うての暴れ者であったらしく 「あく 禅師殿」 の名で呼ばれたという二代将軍頼家によって、のちに、謀叛の罪で殺されている。乙若は後白河院の皇子八条宮に仕える坊官ぼうかん 法師になり、きょう の君 「円済えんせい 」 もしくは 「義円」 を名乗ったが、腹に一物を持った恐ろしい人で、加茂かも春日かすが稲荷いなり 、祇園の祭りごとに平家を狙ったという。のちには源行家ゆきいえ に従って尾張墨俣すのまた の合戦で戦死した。
牛若は四歳まで母のもとで育てられたが、その後、七歳までは山科で代々源氏に仕えていた者の手に預けられた後、鞍馬山東光坊とうこうぼう阿闍梨あじゃり 蓮忍れんにん の弟子で禅林坊の阿闍梨覚日かくにち の下に弟子入りして、遮那王しゃなおう と名乗ったという。
著:高城 修三  発行所:京都新聞出版センター ヨリ
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