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── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
待賢門院璋子と美福門院得子
美しきゆえの恍惚と悲哀

2012/11/06 (火) 大乗経に呪いを血書した崇徳院 (一)

ところで、保元の乱に敗れた崇徳院はどうなったのであろうか。乱が終息して十日ほどたった七月二十三日の夜深くに、崇徳院は配所の讃岐に向かうために仁和寺を出た。明け方に鳥羽を通り過ぎたとき、崇徳院は安楽寿院あんらくじゅいん にある鳥羽院の御陵に参りたいと仰せられたが、それも許されず、伏見から四方を閉ざした舟に押し込められて淀川を下り、瀬戸内海を渡って、八月十日には讃岐さぬき の松山の津 (坂出市大屋富町) に到着した。まだ御所も出来ていなかったので、地元の綾高遠あやのたかとう が用意した御堂に入り、やがて直島なおしま の御所に移られたが人家もない海近い所だったのでさび しいこと限りなかった。そこで、国司こくし のはからいによって、やや内陸の鼓岡つづみのおか (坂出市府中町) に御所をつくり、そちらに移られたという。
配所に落ち着いた崇徳院は、後生ごしょう を願って三年がかりで血書した五部ごぶ 大乗経だいじょうきょう を添え、配流先を都に近い鳥羽か石清水八幡いわしみずはちまんのあたりに変えて欲しいと、仁和寺の覚性法新王かくしょうほっしんのう (鳥羽院の子で待賢門院腹) に訴えた。そこには次のような歌も添えられていた。

浜千鳥 あとは都へ かよへども  身は松山に ねをのみぞなく
浜千鳥が飛んで行くように私の文は都へ届くけれども、私の身は都に戻れることを待って松山の津で泣いている、というのである。しかし、崇徳院の願いは信西によって拒否されている。後生を願った五部大乗経の奉納も許されなかった崇徳院は、それ以来、髪も剃らず、爪も切らず、生きながらの天狗の姿になって、ついには 「日本国の大魔縁たいまえん となり、おう をとって民となし、民を皇となさん」 という呪いを大乗経の奥に血書して、海の底に沈められたという。
崇徳院は長寛ちょうかん 二年 (1164) 八月二十六日に四十六歳で崩御された。御陵は五色台ごしきだい の西端にある稚児ちご ヶ岳につくられた。ここには至極巡礼第八十一番札所白峰寺しらみねじ があり、境内にある頓証寺とんしょうじ 殿は鼓岡の御所 「木の丸殿」 を移したものと伝えられている。そこに崇徳院の御霊をおまつりしていて、その背後に白峰御陵しらみねごりょう がある。御陵の地は崇徳院の御遺体を荼毘だび に付したところとされており、そのとき白い煙が都を指してたなびいたという。
著:高城 修三  発行所:京都新聞出版センター ヨリ
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