ところで、保元の乱に敗れた崇徳院はどうなったのであろうか。乱が終息して十日ほどたった七月二十三日の夜深くに、崇徳院は配所の讃岐に向かうために仁和寺を出た。明け方に鳥羽を通り過ぎたとき、崇徳院は安楽寿院
にある鳥羽院の御陵に参りたいと仰せられたが、それも許されず、伏見から四方を閉ざした舟に押し込められて淀川を下り、瀬戸内海を渡って、八月十日には讃岐さぬき
の松山の津 (坂出市大屋富町) に到着した。まだ御所も出来ていなかったので、地元の綾高遠あやのたかとう
が用意した御堂に入り、やがて直島なおしま
の御所に移られたが人家もない海近い所だったので淋さび
しいこと限りなかった。そこで、国司こくし
のはからいによって、やや内陸の鼓岡つづみのおか
(坂出市府中町) に御所をつくり、そちらに移られたという。 配所に落ち着いた崇徳院は、後生ごしょう
を願って三年がかりで血書した五部ごぶ
大乗経だいじょうきょう を添え、配流先を都に近い鳥羽か石清水八幡いわしみずはちまんのあたりに変えて欲しいと、仁和寺の覚性法新王かくしょうほっしんのう
(鳥羽院の子で待賢門院腹) に訴えた。そこには次のような歌も添えられていた。 |