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── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
待賢門院璋子と美福門院得子
美しきゆえの恍惚と悲哀

2012/11/06 (火) 大乗経に呪いを血書した崇徳院 (二)

崩御の四年後のことである。配流後も崇徳院と連絡を取っていた歌人西行さいぎょう が、崇徳院の呪いの実現を憂慮して白峰御陵を訪ね、怨霊おんりょう をおなぐさめする歌を詠んでいる。

よしや君 むかしの玉の 床とても  かからむ後は 何にかはせむ
この西行の歌に、御陵は三度まで震動したという。頓証寺殿の脇にある大イチョウの下には、歌の呪力を願うように今も歌碑が立っている。しかし、西行の歌によってしても、崇徳院の御霊は鎮魂されなかったのである。
崇徳院は初め 「新院」 後には讃岐で崩御されたので 「讃岐院」 と呼ばれていたが、安元三年 (1177) になって大火事や鹿ししたに 事件などが頻発ひんぱつ すると、それを讃岐院のたた りと怖れられるようになって、七月二十九日には崇徳院の院号を追贈された。さらに年号も 「治承」 に改められた。それでも、治承じしょう 四年 (1180) には以仁もちひと 王の乱が起こり、ついに源平合戦が始まる。
一の谷の合戦があった寿永じゅえい 三年 (1184) には、後白河院によって、保元の乱の際に崇徳院の陣営になっていた白河北殿に崇徳院と藤原頼長を祭る粟田あわた 宮が造営されている。崇徳院はついに神として祭られたのである。
だが、それでも崇徳院の呪いは解けず、七百年後の明治維新のときまで朝廷を悩まし続けたのである。京都市上京区に白峯しらみね 神宮が建立され、勅使ちょくし を派遣して白峰御陵から崇徳院の御霊を移したのは、明治天皇即位直後の慶応四年 (1868) 九月六日のことだった。九月八日には 「明治」 と改元。これで後顧こうこ の憂いを断った明治天皇は、九月二十日に京都を って、 「江戸」 から改名したばかりの 「東京」 に向かうことが出来たのである。
この恐るべき崇徳院の怨霊おんりょう のもとを尋ねれば、鳥羽院をめぐる二人の美しい女院の確執、さらには白河院と待賢門院の秘め事のまで行き着くのである。
著:高城 修三  発行所:京都新聞出版センター ヨリ