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── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
待賢門院璋子と美福門院得子
美しきゆえの恍惚と悲哀

2012/11/06 (火) 皇位継承に不満、兵を挙げる

鳥羽院・美福門院・藤原忠通・信西が連携した後白河天皇の擁立は守仁親王への皇位継承を前提にしたものであったから、崇徳院はいたく失望された。その翌年の保元元年 (1156) 七月二日に鳥羽院が崩御したが、その遺言には政治のことを美福門院と関白忠通に委ねるというものであった。崇徳院は、忠通と対立していた異母弟の藤原頼長と結び、その配下にあった源為義ためよし為朝ためとも や平忠正ただまさ (忠盛の弟) を動員して事に当ろうとした。
こうした崇徳院方の動きを察知していた鳥羽院は、あらかじめ源義朝よしとも ら五名の名を挙げて後白河天皇を守護するように命じていた。初め平清盛は除外されていたが、鳥羽院崩御のあと内裏だいり を取り仕切っていた美福門院が 「院の御遺言ごゆいごん だから」 と押し切って内裏方に召し上げたという。これが後の平家の繁栄をもたらした。清盛は父忠盛の代から、祇園女御、待賢門院、美福門院と、 「治天の君」 に寵愛されて権勢並びなき女人たちに庇護され、その下で巧妙に立ち回っていたのである。
七月十一日未明、内裏に召集されていた後白河天皇方の軍勢六百余騎が鴨川かもがわ を越えとき の声を上げて崇徳方の白河殿を襲った。戦いは天皇方の大勝利だった。崇徳院は仁和寺にんなじ に逃れたが、そこで捕えられ、讃岐さぬき に流された。頼長は奈良に逃れたものの合戦で負った傷がもとで死亡した。平忠正はおい の清盛に、源為義は子の義朝に斬首され、為朝は罪一等を減じられて伊豆大島に流された。
保元の乱に勝利した後白河天皇は、二年後に守仁親王 (二条天皇) に譲位して院政を再開した。この譲位は即位のときから約束されていたことであり、後白河天皇にしても今様と熊野詣に ける自由を欲していたのであろう。その下で権勢を誇ったのは、後白河院の乳母紀伊局きいのつぼね を妻にして院の近臣となり、 「黒衣こくえ宰相さいしょう 」 とうたわれた信西である。信西は平氏の清盛と結び、源氏の義朝を冷遇する。その不満が爆発するのに時間はかからなかった。
平治へいじ 元年 (1159) 十二月九日、清盛が熊野詣に出た隙に、院の近臣として信西と対立していた藤原信頼のぶより が義朝と組んでクーデターを敢行し、信西を殺害した。しかしクーデター勃発の報を聞きつけて急ぎ帰京した清盛のために反乱は失敗し、義朝を棟梁と仰ぐ源氏は壊滅状態になる。これが平治の乱である。
保元の乱によって源平両氏は中央政界へ登場し、平治の乱によって平氏一門の専制と繁栄の道が開かれる事になった。鳥羽院崩御のあとも権勢を誇っていた美福門院は、平治の乱の翌年、四十四歳で崩じた。男たちが歴史の表舞台で闘っているとき、女たちもまた歴史の裏側で女の戦をしている。待賢門院と美福門院の場合、その勝利者が誰なのかと言えば、美福門院の若さに涙を飲んだ待賢門院に軍配を挙げざるを得ない。と言うのも、美福門院の皇統は近衛天皇一代で絶え、あとは待賢門院の後白河院の皇統に引き継がれていくからである。

著:高城 修三  発行所:京都新聞出版センター ヨリ
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