〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-[』 〜 〜
── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
待賢門院璋子と美福門院得子
美しきゆえの恍惚と悲哀

2012/11/06 (火) 鳥羽院の寵愛を受けた美福門院 (二)

待賢門院と美福門院の確執は、崇徳院と鳥羽院の確執でもあった。それはさらに藤原摂家の忠通ただみち頼長よりなが 兄弟の対立や源平両氏の骨肉の争いとも連動していた。そうしたことが、一気に顕在化するのは、久寿きゅうじゅ 二年 (1155) の近衛天皇崩御によってである。
十七歳で崩じた近衛天皇には子がおられなかったから、崇徳院は自らの政治的復権を目ざして重仁新王の擁立をはかった。また、美福門院と結んだ関白藤原忠通は、女院に養育されていた十三歳の守仁もりひと 新王 (雅仁まさひと 親王の子) の擁立を画策した。美福門院には夭折ようせつ した近衛天皇の他に男子がいなかったからである。鳥羽院は美福門院の強い要請もあって、守仁親王の即位に同意した。ところが、父である雅仁親王が健在であるのにその幼子おさなご を皇位につけるのはいかがなものかと、 「無双むそう宏才博覧こうさいはくらん 」 をもって院に仕えていた藤原信西しんぜい が訴えたために、いったん待賢門院腹の雅仁親王を皇位につけ (後白河天皇) その後継者として守仁親王を皇太子とすることに決まった。
後白河天皇の即位は思いがけないものであった。院政時代には幼年天皇、少年天皇が普通だったにもかかわらず、雅仁親王は即位の時、すでに二十九歳になっていた。皇太子でもなかった。母の待賢門院は美福門院に権勢を奪われてかっての影響力を失っていたから、鳥羽院の第四皇子だった雅仁親王自身、皇位など期待しておらず、母待賢門院の庇護ひご の下にあって十歳を過ぎたころから 「今様狂いまようぐるい 」 と言われるほど昼も夜も今様に熱中し、とても皇位に くような器ではないと見られていたのである。

著:高城 修三  発行所:京都新聞出版センター ヨリ
Next