鳥羽院は前関白忠実の娘泰子
(1095〜1155) を皇后として入内させた。泰子 (高陽院かやのいん
) は待賢門院よりさらに六歳年上だから、この入内には政治的な思惑以上に亡き白河院への意趣返いしゅがえ
しがあったのであろう。忠実は璋子件で白河院から関白の座を追われていた人物であり、しかも白河院は遺言まで残して泰子の入内に反対していたのである。 やがて、鳥羽院は藤原長実ながざね
の娘得子とくし (1117〜60)
を寵愛するようになる。待賢門院に劣らぬ美貌の持ち主で、しかも年は十六歳も若い。 院政の時代は美しいという事が異常にもてはやされた時代であった。美貌にすぐれた女院や白拍子しらびょうし
は、その美しさによって栄耀栄華えいようえいが
を手にする事も出来た。しかし、美しさに陶酔とうすい
し、恍惚こうこつ となる時間は、長くはない。いかに美しい花も、何時かは色あせる。その悲哀を待賢門院も噛か
みしめたに違いない。 鳥羽院の寵愛ちょうあい
を一身に集めた得子 (院号は美福門院びふくもんいん
) は、保延ほうえん
五年 (1139) に体仁なりひと
親王を産む。その誕生を待ちかねておられた鳥羽院は、待賢門院腹ばら
の年長の親王が四人いるにもかかわらず、誕生して三ヶ月にしかならない美福門院腹の体仁親王を皇太子に立て、さらに親王が三歳になると、二十三歳の崇徳天皇を欺あざむ
いて譲位させ、系譜上は崇徳天皇の異母兄弟に当る体仁親王を即位させてしまった。近衛このえ
天皇である。これによって、我が子重仁しげひと
親王に皇位を継がせられなかった崇徳院は、天皇の父となって院政を敷く道を塞がれてしまった。この遺恨いこん
が保元ほうげん の乱の遠因となっていくのである。 近衛天皇が即位されて四年後、待賢門院が没した。四十五歳であった。待賢門院は類たぐい
まれな美しさ故に 「治天の君」 の寵愛を受け、数奇すうき
な運命に翻弄ほんろう された。晩年は美福門院との確執かくしつ
に苦しみ、法金剛院ほうこんごういん
(京都市右京区花園) を建立して、しばしここに御幸している。待賢門院の御陵は法金剛院の背後にひかえる五位山ごいさん
東麓にあり、近くには母待賢門院を慕って法金剛院に入った上西門院じょうさいもんいん
の御陵もある。 |