〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part T-[』 〜 〜
── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
待賢門院璋子と美福門院得子
美しきゆえの恍惚と悲哀
2012/11/06 (火) 男を眩惑する美女、待賢門
大治
(
だいじ
)
四年
(1129)
七月七日、即位から数えて五十七年にも及ぶ白河院の長い治世が終わると、孫に当る
鳥羽
(
とば
)
院の院政が始まる。鳥羽院は
嘉永
(
かえい
)
二年
(1107)
、父の
堀河
(
ほりかわ
)
天皇が二十九歳で崩御したのを受けて即位したが、そのときわずか五歳という幼年天皇であり、院政を敷いていた祖父の白河院が専制的な権力を持つ 「
治天
(
ちてん
)
の君」 として君臨していた。
その白河院が美しい少女を見つけて養女にされた。
権大納言
(
ごんだいなごん
)
藤原
公実
(
きんざね
)
の末娘
璋子
(
しょうし
)
(1101〜45)
である。璋子は白河院の
寵愛
(
ちょうあい
)
を受けながらも子のなかった祇園女御の下で育てられ、美しく奔放な娘に成長した。白河院は璋子を
関白
(
かんぱく
)
藤原
忠実
(
ただざね
)
の嫡男
忠通
(
ただみち
)
の妻にしようとされたが、璋子には白河院の御手つきではないかという噂があったため断られてしまった。白河院はやむなく、孫である鳥羽天皇の女御として、璋子を
入内
(
じゅだい
)
させることにした。
永久
(
えいきゅう
)
五年
(1117)
五月、鳥羽天皇十二歳、璋子十七歳の時である。若い天皇には
否
(
いな
)
も
諾
(
おう
)
もなかった。璋子は永久六年
(1118)
正月に
中宮
(
ちゅうぐう
)
となっているが、白河院は入内した後も璋子と密通されていたらしい。 『
今鏡
(
いまかがみ
)
』 によれば、白河院と鳥羽天皇と中宮璋子は三条
室町
(
むろまち
)
殿に同居し、外出の際にも同じ車に乗って
御幸
(
ごこう
)
されることがあったという。余りにも美しく魅惑的であった璋子を、すぐには手放せなかったのであろう。
元永二年
(1119)
六月に
顕仁
(
あきひと
)
親王
(のちの
崇徳
(
すとく
)
天皇)
が生まれた。この親王が白河院の御子であることは鳥羽天皇も知っておられて、親王を 「
叔父子
(
おじご
)
」 と呼んでいたという。顕仁親王誕生のとき白河院はすでに六十代の後半になっていたのだから、なかなかの発展家ぶりである。
璋子は男を
虜
(
とりこ
)
にするタイプの美女であったようだ。祖父のお下がりを頂いたかたちの鳥羽天皇ではあったが、中宮璋子との間には五男二女が生まれている。若い天皇は
煩悶
(
はんもん
)
を抱えながらも、いつしか璋子の妖しい美しさにからめとられていったのであろう。また璋子にしても、白河院がいくら 「治天の君」 とはいえ四十八歳も年上の男となれば、いつまでも満足できるはずもなかったであろう。
保安
(
ほうあん
)
四年
(1123)
、白河院は顕仁親王が五歳になるのを待って鳥羽天皇を譲位せしめ、顕仁親王を即位させて崇徳天皇とされた。二十一歳の鳥羽天皇は多いに不満を持たれたであろうが、白河院には逆らえない。その翌年には中宮璋子に
院号
(
いんごう
)
宣下
(
せんげ
)
があって、これ以降、
待賢門院
(
たいけんもんいん
)
と称するようになる。その後五年後、七十七歳という長寿を誇った白河院もついに崩御の時を迎えられた。ようやく思うがままに院政を実施できる事になった鳥羽院の心は、そろそろ三十歳を迎えようとする待賢門院から離れていく。もはや白河院はおられない。いかに美人とはいえ、祖父のお古、何の遠慮がいるものか。 「治天の君」 ともなれば、そうした思いを募らせても不思議ではない。
著:高城 修三 発行所:京都新聞出版センター ヨリ
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