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── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
北 条 政 子
夢を買って尼将軍になった女

2012/11/27 (火) 伊豆山権現に夫の武運を祈る (二)

寿永二年 (1183) になると、天下の形勢が急を告げてくる。北陸道を通って上洛じょうらく を果たそうとする木曾義仲が、背後を固めるために、長男の義高よしたか を頼朝のもとに人質として送ってきたのである。頼朝もこれを歓迎し、長女の大姫を義高の許嫁いいなずけ とした。大姫五歳、義高十一歳であった。このあと、義仲は破竹の勢いで平家を都から追い落とすのだが、翌年一月二十日に義仲が琵琶湖湖畔で鎌倉軍に討ち取られると、その四月二十六日には人質の義高も殺された。この事件が幼い大姫の心に大きな傷痕きずあと を残すことになる。
元暦げんりゃく 二年 (1185) 三月二十四日、平家は壇ノ浦で滅亡した。すると今度は、平家追討の最大の功労者であった義経が頼朝と対立し、吉野山で行方をくらませてしまう。そのとき、後に残された義経の愛人静御前が捕えられ、文治ぶんじ 二年 (1186) 三月一日、尋問のために鎌倉に送られて来た。静御前は義経の子供を身ごもっていたために鎌倉に留め置かれ、四月八日には鶴岡八幡宮で舞を舞うことを強要される。この時静御前は行方不明の義経を慕う歌を歌った。居並ぶ東国武士たちは静御前の華麗な歌と舞いに感動して声もなかったが、頼朝は 「我が前をはばからず、反逆者の義経を慕って歌を歌うとは何事か」 と激しく立腹した。それを取り成したのが政子であった。
政子は父の時政を裏切って夜の激しい雨の中を必死の思いで頼朝もとに駆けつけたこと、また頼朝が石橋山の合戦で敗北した折は生きた心地もしなかったことを挙げて、 「今の静の心情もそれと同じです。義経との深いよしみを忘れるようでは貞女とは言えません。歌と舞にこと寄せて自分の心情をあらわすというのは、幽玄ゆうげん のきわみです。ここはまげて誉めてやってください」 と頼朝に懇願したのである。
家臣列座の中、政子は自らの心情を率直に打ち明け、悲しい境遇にあった静御前に深い同情を示したのである。これには逆らえない。頼朝にすれば、家臣を前にして身内の反逆者に対して厳しく当らなければ武家の棟梁の資質を問われる。しかし、それではじょう がない。そのジレンマを見事に救ったのが、政子の懇願だった。政子は、ここぞというときに、目先の利益にとらわれず、的確な判断が出来る稀有けう な女性である。ただし、頼朝の女性関係になると話は別で、その嫉妬も激しかった。静御前が鎌倉に到着する五日前の二月二十六日、頼朝の愛人である大進だいしんつぼね が頼朝の男子を出産していたから、それに対する憤懣ふんまん を、静御前の擁護というかたちを借りて吐露したのかも知れない。
頼朝は義経追討を名目にして全国に守護しゅご地頭じとう を設置し、奥州に を唱えていた藤原氏も滅ぼして、ついに天下の兵権を握った。それを天下に示したのが、建久けんきゅう 元年 (1190) 十一月七日、総勢三十万ともいわれる大軍を率いた頼朝の上洛であった。頼朝は都大路をパレードしながら六波羅の新邸に入り、後白河院を六条に訪ねている。武家の時代の到来を都人に刻印したのである。
建久三年 (1192) 三月、頼朝が 「大天狗」 と評した後白河院の崩御ほうぎょ があって、その四ヵ月後の七月十二日、頼朝は征夷大将軍に任命された。政子は、その翌月に次男実朝さねとも を産んでいる。このころが政子の最も幸せな時ではなかっただろうか。

著:高城 修三  発行所:京都新聞出版センター ヨリ
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