建久六年
(1195) 三月、将軍家は一家揃っての上洛を果たした。奈良の東大寺再建供養が第一の目的であったが、それにかこつけて、源平争乱の陰の演出家であった後白河院亡き後の朝廷との関係を調節する目的もあった。政子にとっては、京都近在の寺社参拝の他に、すでに十八歳になっていた大姫を後鳥羽
天皇の後宮に入れるための運動のあった。大姫は幼い時に死んだ義高を思う余り結婚話を拒絶していたから、政子は何とかこの話をまとめようと画策したのだが、京都の複雑な政治動向もあって不調に終わった。大姫は二年後に心身を患わずら
って亡くなっている。 正治しょうじ
元年
(1199) 一月十三日、頼朝が没した。大姫に次ぐ肉親の死に、政子は深い悲しみにくれた。頼朝は次から次へと愛人をつくって政子を嫉妬させたが、知り合って以来にたむきな愛情を捧げ、妻として二十年余りも支え続けてきた夫である。政子は頼朝の後を追って死のうとさえ思ったが、残された子供の行く末を思うと、それもならず、出家して尼の姿となった。これより政子は若い将軍の後見として、徐々に政治の前面に出てくるようになる。 頼朝のあとを継いで二代将軍となった頼家は狩や蹴鞠に熱中し、客気かっき
にはやって北条氏や老臣と対立した。政子は頼家が病弱なうえ幕府の統率にも欠けると見て、建仁けんにん
三年
(1203) 九月頼家を出家させ、弟の実朝を三代将軍とした。その翌年、頼家は悲憤のうちに修禅寺に没した。 実朝は京都の貴族文化を慕い、和歌に熱中した。そんな実朝を取り込もうと後鳥羽上皇は次々に官位を与え、建保けんぽう
六年
(1218) にはついに右大臣任官となった。翌年一月二十七日、右大臣拝賀の式が行われた鶴岡八幡宮の斜頭において、実朝は頼家の遺児公くぎょう
暁に暗殺された。 これ以降、将軍の任務は政子が代行し
「尼将軍」 と呼ばれるようになる。それを弟の執権義時よしとき
が輔佐した。四代将軍は頼朝の遠縁に当る九条頼経よりつね
が選ばれ、京から下ってきた。 実朝暗殺事件によって、京都と鎌倉の反目は抜き差しならぬものになっていった。承久じょうきゅう
三年
(1221) 三月二十二日、政子は明け方に奇妙な夢を見た。由比ヶ浜の波間に鏡が浮かんで 「われは大神宮である。天下が大いに乱れて兵を動かす事になるが、泰時やすとき
がわれらを祭るなら泰平を得よう」
という声が聞こえてきたのである。政子はさっそく伊勢神宮に人を遣わして願文をささげた。 五月一日には執権北条義時追討の宣旨が下り、東国武士にも勅命を奉じて義時を討てという密書が送られた。風雲は急を告げていた。その十九日、
「尼将軍」 政子の邸に東国の御家人が招集された。政子は彼らを前にして 「皆みな
心を一つにして聞いて欲しい。これが最期の言葉です」 と切り出し、頼朝以来三代の将軍の恩顧おんこ
を切々と説いて味方の士気を鼓舞した。これを聞いた一同は涙を流して忠節を誓ったという。ここにおいて、すでに勝敗は決していたと言えよう。 幕府軍十九万騎はたちまちのうちに上皇軍を席捲せっけん
した。後鳥羽上皇はあわてて義時追討の宣旨を取り消されたが、もはや手後れであった。討幕計画を指導した後鳥羽上皇は隠岐おき
に、順徳じゅんとく
上皇は佐渡に、さらに土御門つちみかど
上皇も土佐に流された。三上皇がそろって配流とされたのである。 嘉禄かろく
元年
(1225) 六月十日、広範な知識と冷徹な判断によって 「尼将軍」 政子を補佐してきた大江広元おおえのひろもと
は七十八歳で没した。それを追うようにして七月一日、政子が永眠する。六十九歳だった。 政子は保元ほうげん
の乱の翌年に生まれ、源平合戦という未曽有みぞう
動乱時代を経て、幕府政権が樹立されるまでの困難な時代を生き抜いてきた女性である。しかし、妹の夢を買って手に入れた
「尼将軍」 の地位は、政子に女の幸せをもたらしたとは言い難い。夫の情勢関係に悩み、我が子大姫を精神の病に追いやり、頼時を幽閉し、父時政をも排さなければならなかった。動乱の時代がそれを強いたのである。 |