〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part T-[』 〜 〜
── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
北 条 政 子
夢を買って尼将軍になった女
2012/11/26 (月) 伊豆山権現に夫の武運を祈る (一)
政子が頼朝と結ばれたのは
治承
(
じしょう
)
元年
(1177)
のころで、都では反平家の気運が高まり、後白河院は近臣による
鹿
(
しし
)
ヶ
谷
(
たに
)
事件が起こっていた。頼朝のもとにも平家に反感を持つ伊豆やspan>
相模
(
さがみ
)
の武士たちが密かに出入りし、また、
蛭
(
ひる
)
ヶ小島に近い
奈古谷
(
なこや
)
に流されていた
文覚
(
もんがく
)
上人がたびたび頼朝の館を訪ねて、しきりに謀反をすすめるようになる。治承四年
(1180)
四月には、
以仁
(
もちひと
)
王・源
頼政
(
よりまさ
)
が挙兵し、その月末には平家追討を呼びかける王の
令旨
(
りょうじ
)
が叔父
行家
(
ゆきいえ
)
によって頼朝のもとに届けられていた。
八月十七日には三島神社の大祭だった。その夜、頼朝は時政の支援を受けて、ついに決起し、政子に執着していた伊豆の目代山木兼隆を急襲して殺害、国府政庁を手に入れた。さらに相模の三浦一族と連携しようと、頼朝は北条をはじめとする三百騎を率いて伊豆の山を越え、二十三日には石橋山に進んだ。ここで頼朝軍は、大庭景親率いる三千余騎の平家軍に行手をふさがれ、さらに後方から伊東祐親の三百騎に襲われた。土砂降りの雨の中で激しい戦いが続いたが、頼朝軍は惨敗した。頼朝は命からがら箱根山に落ち延び、木の
洞
(
ほら
)
に隠れて何とか残党狩りを逃れると、
真鶴
(
まなづる
)
岬から小舟に乗って
安房
(
あわ
)
にに渡り、そこで
由比
(
ゆい
)
ヶ浜から敗走してきた三浦軍と合流することが出来た。
頼朝が石橋山に出陣した時、政子は伊豆山権現に籠もって夫の武運を祈ったが、戦いに敗れて頼朝の行方が知れぬとに
報
(
しら
)
せに
茫然自失
(
ぼうぜんじしつ
)
となった。しかし、安房に逃れた頼朝は奇跡的な再起を果たす。以仁王の令旨を掲げて東京湾を北上するうちに、安房・
下総
(
しもふさ
)
・
上総
(
かずさ
)
の豪族が大軍を率いて頼朝軍に
馳
(
は
)
せ参じ、さらに
武蔵
(
むさし
)
から
相模
(
さがみ
)
へと南下した頼朝軍は在地の武士団を
糾合
(
きゅうごう
)
しながら、十月六日に鎌倉入城を果たした。決起して五十日ほどで、ほぼ南関東の武士団は頼朝の支配下に入ってしまったのである。
政子は二歳になる長女大姫と共に鎌倉に呼ばれた。しかし、平
維盛
(
これもり
)
率いる追討軍が鎌倉に向かっていた。頼朝は鎌倉に落ち着く間もなく、大軍を率いて
駿河
(
するが
)
に向かい、十月十八日、富士川の戦で大勝利をおさめるのである。頼朝はそれ以上に平家を追討することなく鎌倉に
凱旋
(
がいせん
)
すると、
鶴岡八幡宮
(
つるおかはちまんぐう
)
の新しい社殿の東側に広壮な御所を新造するなど、鎌倉を武家政治の拠点として整備し、東国武士団の掌握に力を尽くした。
寿永
(
じゅえい
)
元年
(1182)
八月、政子は
頼家
(
よりいえ
)
を産んだ。武家の棟梁の妻として、嫡男の誕生は最高の誉れである。しかし、好事魔多しというべきか、頼朝は以前から
寵愛
(
ちょうあい
)
していた亀の前を鎌倉近くに呼び寄せて政子の妊娠中もたびたび通っていたのだが、それを牧の方が政子に告げ口したのである。政子には
赦
(
ゆる
)
されないことだった。ただちに
牧宗親
(
まきむねちか
)
を遣わして、亀の前をかくまっている
伏見広綱
(
ふしみひろつな
)
の家を打ち壊し、多いに
恥辱
(
ちじょく
)
を与えた。
これを知った頼朝が宗親を詰問して
髻
(
もとどり
)
を切り落としてしまった。すると牧の方の肉親にびどい仕打ちをしたと時政が怒って、伊豆にもどってしまい、挙兵以来親密であった両者の関係が気まずくなってしまった。こうなると、意地の張り合いである。頼朝はますます亀の前への寵愛を深め、政子は亀の前をかくまっていた伏見広綱を
遠江
(
とおとうみ
)
へ流してしまったというから、夫婦喧嘩にしては何ともはた迷惑な話である。
著:高城 修三 発行所:京都新聞出版センター ヨリ
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