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── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
建 礼 門 院 徳 子
この世の六道を廻った女院

2012/11/22 (木) 恐ろしい予言の実現におののく (二)

壇ノ浦で生き長らえた建礼門院は都にもどされ、東山ふもとにある吉田あたりの僧坊に身を寄せられた。そんなところへ、平時忠が建礼門院を訪ねてきて、 「今日、これから配流先の能登へまいります。あなたさまのことが心配でございます」 と泣きながら暇乞いとまご いをした。なりふりかまわず命を惜しむ時忠は、八咫鏡を海に沈めずに捕まったことで何とか流罪を逃れようと試みたが、それも失敗すると、義経に我が娘を与えて身の安全をはかったのである。しかし、のちに義経追討の院宣が下ると、それが禍に転じて、ついに能登配流となった。これが建春門院けんしゅんもんいん と二位殿の兄弟であることを笠に着て、 「この一門にあらざらむ人は、皆人非人にんぴにん なるべし」 と豪語した人の末路であった。
壇ノ浦の合戦から二ヶ月とたたぬ元暦二年 (1185) 五月、建礼門院は長楽寺ちょうらくじ印西上人いんぜいしょうにん を戒師として出家した。布施ふせ するものとてないので、形見として身から離さずにいた安徳天皇の直衣のうし を布施したという。今も長楽寺にはその直衣でつくったはた や、建礼門院の肖像画、供養塔などを残している。
その年の秋の末、洛東の吉田では都に近すぎて辛い話も聞こえてくるからと、建礼門院は山深い大原の里に隠棲いんせい されることになり、寂光院じゃっこういん のかたわらに方丈ほうじょう の庵を結んだ。その一間を寝所に、あとの一間を仏所として、日夜不断の念仏に明け暮れた。墨染すみぞめ の衣をまとい、お側に仕える者も、安徳天皇の乳母であった大納言佐だいなごんのすけつぼね (重衡しげひら の北の方)信西しんぜい の娘の阿波内侍あわのないし ら三、四人でしかなかった。
女院が大原に隠棲されたと聞いて右京大夫うきょうのないぶ が訪ねて来たのは、この年か翌年の秋であろう。建礼門院の姉妹たちも訪ねて来たが、会えば互いに涙をこぼすばかりであった。
著:高城 修三  発行所:京都新聞出版センター ヨリ
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