〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part T-[』 〜 〜
── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
建 礼 門 院 徳 子
この世の六道を廻った女院
2012/11/22 (木) 恐ろしい予言の実現におののく (一)
壇
(
だん
)
ノ
浦
(
うら
)
の波間に消えた
安徳
(
あんとく
)
天皇と二位殿の後を追って海に入られた
建礼門院
(
けんれいもんいん
)
は、渡辺党の
源五馬允眤
(
げんごうまのじょうむつる
)
の熊手にかかって舟上に引き上げられ、命ながらえてしまった。我が子である安徳天皇が目の前で沈んでしまわれた時、建礼門院は、一瞬、恐ろしい予言の実現におののかれたのかも知れない。
それは、女院が安徳天皇御出産の陣痛に苦しまれていたときのことだった。実母の二位殿
(時子)
はお側にいるのも苦しく思われて、一条
戻橋
(
もどりばし
)
の東詰めに車を止め、
橋占
(
はしうらな
)
いをしたところ、十四、五人の
禿
(
かぶろ
)
が東から西へ走りながら、手で拍子を取りつつ 「
榻
(
しじ
)
は何榻国王の榻、
八重
(
やえ
)
の
潮路
(
しおじ
)
の波の
寄榻
(
よせしじ
)
」 と四、五へん歌って橋を渡り、東を指して飛ぶように消えたという。二位殿がこのことを弟の
時忠
(
ときただ
)
に告げると、 「波の寄榻は分からないが、王の榻というのだから生まれてくるのは皇子であろう。めでたい占いだ」 と判じた。しかし今になってみれば、 「八重の潮路の波の寄榻」 は、安徳天皇が八歳で壇ノ浦の海に沈んでしまわれるという予言だったのである。
安徳天皇が西国に落ちたあと、後鳥羽天皇は
三種
(
さんしゅ
)
の
神器
(
じんぎ
)
なしに即位されていた。これでは皇位継承の正当性に問題がある。困った後白河院は、一の谷の合戦で生け捕りにされた平
重衡
(
しげひら
)
の身柄を三種の神器と交換しようと屋島に使者を派遣したが、それも失敗していた。壇ノ浦で平家を滅ぼした鎌倉方にとって、三種の神器の行方が最大の気がかりだった。
内侍所
(
ないしどころ
)
(
八咫鏡
(
やたのかがみ
)
)
は平時忠と共に鎌倉方の手に入っていた。しかし、二位殿が身に帯びて海に沈んだ
神璽
(
しんじ
)
(
八坂瓊曲玉
(
やさかにのまがたま
)
)
と宝剣
(
草薙剣
(
くさなぎのつるぎ
)
)
のうち、神璽は海上に浮かび上がってきて回収されたものの、宝剣はついに海の底に失われてしまった。
鎌倉に
囚
(
とら
)
われていた重衡は用済みとなり、その身柄は南都奈良の僧徒に引き渡され、東大寺・
興福寺
(
こうふくじ
)
を焼き討ちした罪により斬殺された。壇ノ浦で生け捕りにされた
宗盛
(
むねもり
)
・
清宗
(
きよむね
)
父子も、のちに近江国の
篠原
(
しのはら
)
で斬られた。維盛の忘れ形見であった
六代
(
ろくだい
)
は北山の
菖蒲谷
(
しょうぶだに
)
に隠れていたが、平家の残党狩りをしていた北条
時政
(
ときまさ
)
に捕えられた。しかし、鎌倉に送られる途中、
文覚上人
(
もんがくしょうにん
)
の取り成しがあり、赦されて京都に戻った。
文治
(
ぶんじ
)
五年
(1189)
に十六歳で出家し、高野山に登って滝口入道から父の臨終の次第を聞き、さらに熊野那智を訪ねたと 『平家物語』 は記している。六代は
神護寺
(
じんごじ
)
に入って三十過ぎまで修行していたが、平家の嫡男を生かしておけないとして捕えられ、関東に送られて斬り殺された。また、平家に連なる多くの
殿上人
(
でんじょうびと
)
が地方に流された。
著:高城 修三 発行所:京都新聞出版センター ヨリ
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