屋島を根拠地として瀬戸内海の制海権を手中にした平家は、木曾義仲亡き後福原に陣を敷いて京都を攻める勢いを示した。平家軍は生田の森を東の城戸口
、一の谷を西の城戸口として、その三里 (十二キロ) の間に堀をうがって逆茂木さかもぎ
を立て、二重三重の垣楯を構えた。さらに海上には兵船を並べて鉄壁の陣を敷いていた。こうした平家の動きを見て、後白河院は例の如く源平両氏を併用して、天秤てんびん
にかけるつもりであったが、義仲を滅ぼして京都を手中にしていた頼朝は強く平氏追討を迫り、院宣いんぜん
を求めた。後白河院はそれを認めるしかなかった。 寿永三年 (1184) 二月六日、摂津せっつ
・播磨はりま ・丹波たんば
の国境にある三草みくさ 山で義経軍一万余騎と平家の遊軍三千余騎の合戦があった。資盛は遊軍の大将軍だったが、義経の夜討に大混乱を来して敗れ、播磨の高砂より船に乗って屋島に落ちた。二月七日には、義経の鵯越ひよどりごえ
の奇襲によって平家軍は壊滅的な打撃を受け、敗残兵は屋島に逃げるが、水軍を持たない鎌倉軍はそれを追討出来なかった。平家にとっては不幸中の幸いであった。 屋島に落ち延びた平家は淡路島から関門海峡までの瀬戸内海の制海権を掌握して、再び勢いを取り戻しつつあった。そんな頃であろうか。右京大夫は資盛に最後の手紙を書き送った。それに添えた歌は次のようなものだった。 |
おなじ世と なほ思ふこそ かなしけれ あるがあるにも あらぬこの世に |
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同じ世荷生きていると思うことが悲しい、生きていても生きていることにならない戦乱の世ですから。 平家を追討しようと山陽道を西下した範頼のりより
軍は平家の水軍のために至るところで苦戦を強し
いられたが、元暦げんりゃく 二年
(1185) 二月、嵐の中を渡海した義経の屋島奇襲によって平家は惨敗、残った軍船は安徳天皇を擁して瀬戸内海を西へと落ちていった。屋島での勝利によって源氏は瀬戸内水軍の多くを味方にし、ついに三月二十四日、壇ノ浦の海戦で平家を滅亡させる。総大将平知盛とももり
の 「みな海に入れさせ給へ」 という言葉に始まった平家の最期は、 『平家物語』 巻十一の 「先帝身投せんていみなげ
」 「能登殿最期のとどのさいご
」 に詳しい。 まず、二位殿 (清盛の妻時子) が神璽しんじ
「八坂瓊勾玉やさかにのまがたま
」 を脇に挟み、宝剣 「草薙剣くさなぎのつるぎ
」 を腰に差して八歳になられる安徳天皇を抱き、船端に立った。二位殿は東に向かって伊勢大神宮にいとまを告げ、西に向かって念仏を唱えてから、幼い安徳天皇に 「浪なみ
の下にも都はございます」 とおなぐさめして、共に海の底に沈んだ。このありさまをご覧になった建礼門院も、温石おんじゃく
や硯すずり を懐にして海に入られたが、敵の渡辺眤むつる
に熊手で引き上げられ、囚われの身となった。そうしているうちに、平教盛のりもり
・経盛つねもり の兄弟が鎧の上に錨いかり
を負うて手に手を取って海に入り、資盛も有盛ありもり
や行盛ゆきもり と共に手を組んで海に沈んでいった。平家の中にあっても勇猛をうたわれていた能登守教経のりつね
は、敵の安芸実光あきのさねみつ
主従三人を道連れにして海に飛び込んだ。また、知盛とももり
も 「見るべき程のことは見つ」 と言って、乳母子である平家長いえなが
ともども鎧二つを身に着け、手を取り合って海に沈んだ。そうした中で、平宗盛むねもり
・清宗きよむね 父子はぐずぐずしているところを見かねた味方の兵に舟から突き落とされ、それでも互いに様子をうかがって海に浮かんでいたので、ついに敵の舟に引き上げられ、捕らわれてしまった。平時忠も内侍所ないしどころ
(八咫鏡やたかのかがみ
) を持って海に入ろうとしたが、袴のすそを船端に矢で射付けられ、からめとられてしまった。 |