元暦二年
(1185) 春、資盛の訃報
を聞いた京極大夫は茫然ぼうぜん
自失して、その日一日を泣き通した。それ以来、何かにつけて資盛の想い出にさいなまれるようになった。 |
ためしなき かかる別れに なほとまる 面影ばかり 身にそふぞ憂き 忘れむと 思ひてもまた たちかへり 名残なからむ ことぞかなしき |
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資盛の手紙を引き出して見るたびに胸をかきむしられるような悲しみに襲われる。昔の手紙に裏打ちして六体地蔵を描き、資盛の供養をしたりもしたが、悲しみはつきない。季節の折々に通った北山の資盛別邸を訪ねてみても、資盛の面影ばかりが目に浮かび、涙を抑えようがない。 右京大夫は、小宰相のように一途な恋に身を投げることも出来なかったし、建礼門院のように出家する事も叶わなかった。右京大夫が選んだのは、歌に自分の悲しみをぶつけ、昔の華麗な夢の中に生きることだった。それを実現したのが
『建礼門院右京大夫集』 で、 「我が目ひとつに見む」 つまり自分だけの記録として編まれた日記風の歌集である。しかし、折々の歌を集めてみると、さらにその悲しみは深くなった。 建礼門院が大原に隠棲なさったと聞いて、右京大夫はやむにやまれぬ気持から女院の庵を訪ねた。かっては錦の衣をまとわれて六十人余りの女房にかしずかれていた女院は、墨染すみぞめ
めの衣に身をやつし、お仕えしているのも三、四人ばかりだった。互いに見知った人たちと再会しても、
「それにしても、まあ」 と口にするだけで、むせび泣く涙で言葉も続けられなかった。今が夢なのか昔が夢なのかと迷い、どのように思ってみても、現実とは思えない。 |
今や夢 昔や夢と まよはれて いかに思へど うつつとぞなき |
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のちに右京大夫は後鳥羽天皇の宮中に出仕している。そこでも、かってお仕えしていた女院の御座所である藤壺などを見ると、華やかな昔の事が思い出され、悲しみが膨れ上がってくるのだった。 |
いざさらば 行方も知らず あくがれむ 跡とどむれば 悲しかりけり |
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これは
『新千載和歌集しんせんざいわかしゅう』 (1356) に採られた右京大夫の歌で、似たような歌は 『建礼門院右京大夫集」 にもある。こんなつらいだけの浮世うきよ
から逃れて、心のままに、あのお方のもとに浮かれて出て行こう、というのである。 藤原定家が
『新勅撰和歌集』 を撰集するにあたって、右京大夫に昔の歌を出すように求めたとき、 「建礼門院時代の召名か後鳥羽天皇時代の召名か、いずれにしますか」 と問われた右京大夫は、
「昔の名こそ残したいものです」 と 「建礼門院右京大夫」 への愛着を示してる。昔の名に平家一門の栄華と資盛の恋の記憶を留めようとしたのである |