以仁
王と平頼政よりまさ が挙兵した治承四年
(1180) から平家が壇だん
ノ浦うら に滅びる元暦げんりゃく
二年 (1185) まで、六年にも渡った源平の争乱は、そこに巻き込まれた女たちにも過酷な運命を強いた。小宰相のように一途な恋に我が身を絶った女人もあれば、建礼門院のようにこの世の栄華と地獄を巡った果てに出家した女人もあった。その建礼門院に仕えた右京大夫うきょうのだいぶ
は、また違った悲劇を生きなければならなかった。 承安じょうあん
二年 (1172) 、前年に入内じゅだい
していた清盛の娘徳子とくこ が高倉天皇の中宮
(のち建礼門院) となった。その翌年、右京大夫が中宮のもとに出仕している。 「右京大夫」 というのは召名めしな
(女房の呼び名) で、実名は伝わっていない。父は能書家として知られる藤原伊行これゆき
で、 「三跡」 の一人として名高い藤原行成ゆきなり
から数えて六代目に当る。母の家系は代々楽所がくそ
に仕える伶人れいじん (音楽家)
で、右京大夫の祖父大神基政は笛の名手、母の夕霧も筝そう
の名手であった。 両親の豊な天分を受け継いだ右京大夫は、歌の贈答、管絃。社交的な会話などが不可欠な宮中において、たちまち注目を集めることになる。間近にお仕えする中宮や高倉天皇をはじめ殿上人てんじょうびと
たちとの花見や歌合うたあわ せなどの日々は、目もくらむほどに華やかだった。平忠度ただのり
、平宗盛むねもり 、平維盛これもり
の北の方、その母である京極きょうごく
殿 (歌人として名高い藤原俊成しゅんぜい
の娘) 、歌人で色好みとして知られる藤原隆信、女流歌人の小侍従こじじゅう
などとの歌の贈答もあった。 そうした夢かとまがうような華麗な宮中生活の中で、やがて右京大夫は平資盛すけもり
との恋におちいる。資盛は重盛しげもり
の次男である。美男で聞こえた兄の維盛に似ていたという。 嘉応かおう
二年 (1170) 十月、雪がまばらに降っていた夕方のことだった。お供の若侍たちと馬を駆って鷹狩に出かけた帰り道、資盛は摂政せっしょう
藤原基房もとふさ の車と道で出会ったにもかかわらず、下馬の礼を取らず、そのまま通り抜けようとしたために、清盛の孫とは知らない基房の従者から辱めを受けた。その訴えを聞いた重盛は、ならず者を使って基房の従者に手荒い仕返しをするという
「殿下乗合のりあい 事件」 を引き起こしている。そのとき資盛は十三歳。
『平家物語』 には 「摂政関白のかかる御目にあはせ給ふ事、いまだ承うけたまはり
及ばず。是こそ平家の悪行のはじめなれ」 と記されている。平家全盛時代の到来を象徴するような事件であった。 資盛は筝の上手であり、 『新勅撰和歌集しんちょくせんわかしゅう』
(1235) にも入集しているから歌も相当なものだった。この平家の御曹司と右京大夫は、いつしか歌を詠み合う仲になっていた。 |
浦みても かひしなければ 住すみ
の江え に おふてふ草を たづねてぞみる |
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父重盛と共に住吉詣すみよしもうで
をした資盛が、右京大夫に贈った歌である。 「浦み」 に 「浦見」 と 「恨み」 を、 「かひ」 に 「貝かひ
」 と 「詮かひ 」 を掛けている。浦を探してみてもかいがないように、せめてあなたを忘れられるように住の江に生えているという忘れ草を探してみました。女の心をつかむ歌である。 右京大夫は五年ばかりで宮中を辞した・資盛との恋が世間の噂になったからという。右京大夫は次第に資盛との恋路に迷い込んでいく。それに対して資盛からは何の音沙汰もないことがある。今日限りで、もう別れようと思うが、夕暮れになると資盛の面影が浮かんで右京大夫を悩ませた。 |
つねよりも 面影にたつ ゆふべかな 今やかぎりと 思ひなるにも |
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寿永二年
(1183) 七月、平家は都を落ちて西国に走った。その冬、おそらく讃岐の屋島からであろう。資盛から手紙があって
「今はもう我が身が生きてあるとは思っていない。皆もそう思って、後世を弔ってくれ」 とばかりあったが、文を頼むべき人もなく、すぐには返事のしようがなかった。
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