源平争乱の主役というべき平清盛の出生は謎に包まれている。と言うのも、
『平家物語 』
や 『源平盛衰記げんペいせいすいき』
が、清盛を白河院の御落胤ごらくいん
だとしているからである。事の真偽はあとにして、ともあれ清盛落胤説を追ってみよう。 感神院かんしんいん
(祇園社いまの八坂神社) に白河院しらかわいん
の御幸ごこう があったとき、西大門の大路に伏している小家の水汲み女を見かけた白河院は、その美しさに打たれて女を召した。以来、白河院の寵愛ちょうあい
は格別であった。女は祇園社の東南に白河院のはからいでつくられた御所に住んでいたことから祇園女御ぎおんにょご
と呼ばれた。 五月雨さみだれ
の降る夜、白河院がわずかな供を連れて祇園女御を訪ねられたとき、御堂みどう
のかたわらで怪しいものに出会った、その髪は雨の中で銀の針のようにきらめき、右の手には鎚つち
のようなものを、左手には光ったり消えたりする不思議な光り物を持っている。鬼かと肝を冷やした白河院が供の平忠盛ただもり
に 「あのものを射殺し、斬り殺せ」 と命じられたところ、忠盛は殺すまでもあるまいと弓矢も太刀も捨てて、怪しいものに組みついた。ところが、鬼と見たものは七十ばかりの老法師であった。雨よけに小麦の藁わら
をかぶり、手には油壺と土器かわらけ
に入れた燠おき を持って、燈籠とうろう
に火を入れようとしていたのである。幽霊の正体を見たりというわけだが、白河院は老法師を殺さずに組んでかかった忠盛の思慮ある行為を賞し、寵愛されていた祇園女御を賜たまわ
ったという。 そのおり、祇園女御は院の御子みこ
を孕はら んでいたので、白河院は
「生まれてくる子が女子ならば朕ちん
の子にせよ。男子ならば忠盛の子として武士に育てよ」 と仰せられた。無事に生まれたのは男子であった。」 それからしばらくして白河院の熊野くまの
御幸のお供をした忠盛は、紀伊国の糸我いとが
坂で山芋やまいも のムカゴを採って院の御前に参り |
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と、申し上げた。 「いも」 に芋いも
と妹いも
(祇園女御) を掛けている。忠盛は白河院が約束を覚えておられるか気掛かりだったので、それを確かめようと一句連歌いつくれんが
を思い立ったのである。白河院は、忠盛の意図するところをすぐに気付かれて |
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と付けられた。
「そのまま盛り採って体の養いにせよ」 という句に、 「忠盛が引き取って養育せよ」 という意を兼ねたのである。以来、忠盛は白河院の御子を我が子として育てたという。また、その子が夜泣きして困っていると聞かれた白河院は、次の様な歌一首を忠盛に下されたという |
夜まきすと ただもりたてよ 末の世に きよくさかふる こともあれこそ |
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御製ぎょせい
の下の句に 「清く盛ふる」 とあったことから、清盛と名乗るようになったよいう。 |