〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜
「 恋 の 物 語 」 に 秘 め ら れ た 謎
恋 が 二 人 を 選 ん だ

2012/11/03 (土) 海 軍 士 官 廣 瀬 武 夫

十九世紀末の日本は教養のある上空士官が不足していた。日本では、海軍兵学校をつくり、裕福な侍階級の子孫だけでなく、庶民の出身者も募集した。授業料が無料だったこともあり、数多くの絶望した両親や親族は、自分たちより恵まれた待っていると当然のことながら考えて、その利口な息子たちを喜んで学校に預けた。
こうして廣瀬武夫は、築地にある兵学校に入学した。廣瀬は追加募集の時の二度目の試みを経て1885年 (明治十八年) 十二月に入学した。 (七月の最初の入学試験は失敗した) 。 88年八月に海軍兵学校が築地から江田島に移転したので、彼も江田島に移った。彼の柔道が上達し始めたのはこの時期である。89年四月二十日に彼は海軍兵学校を卒業して (八十人中六十四番) 海軍少尉候補生となり、横須賀に転居する。1895年 (明治二十八年) までは様々な船に乗って、ハワイ、グワム、ニューカレドニア、ニューギニア、スペインなど、世界中の数多くの地域を訪れている。95年二月に彼は海軍大尉に任官され、水雷艇の艇長となった。その後、幾つかの水雷艇を移動し、1896年四月二十日には古い砲艦 「磐城いわき 」 の航海長に任命された。翌97年 (明治三十年) 六月二十六日、廣瀬をロシアに留学させるという命令が出る。同じ時に彼の友人秋山真之は、同様の目的で米国に送られている。この時期まで数年、廣瀬は自発的にロシア語を学んでいた。
1897年九月二十六日、武夫はペテルブルクのワルシャワ駅に到着した。
留学生として彼はロシア語とフランス語を習得しなければならなかった。このため彼はロシアの首都に滞在しながら、彼の意志によって雇った女教師下で学んでいた。そして二年後の1899年夏に、ロシア留学を免じて駐在を命じると言う命令が出された。当時の日本公使館は、コンノヴァルディスキー並木通り十七の住所にあった。こうして、廣瀬は1902年 (明治三十五年) 一月十六日にペテルブルクを去るまで、駐在武官補佐官としてロシアに滞在することになった。

著:スヴェトラーナ・フルツカヤ
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