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「 恋 の 物 語 」 に 秘 め ら れ た 謎
ア リ ア ズ ナ と は 誰 か ?

2012/11/02 (金) コヴァレフスキー海軍少将の謎

私は、当時のアリアズナの住所と、もし生きている彼女の親類が存在するなら、これを見つけるよう依頼されていた。日本のいずれの論文でも、廣瀬の二巻からなる著作集 ( 『廣瀬武夫全集』 講談社) でも、アリアズナは、 「コヴァレフスキー・ウラジーミルアレクサンドロヴィチ海軍少将・水路管理局長の娘アリアズナ・ウラジーミロヴナ・コヴァレフスカヤ」 と紹介されていた。
私はこのことで問題が起こるとは考えもせずに、ロシア国立海軍公文書館に問い合わせた。なにしろ私には 『ロシアにおける廣瀬武夫』 という分厚い研究論文があり、ここに廣瀬の足取りが詳細に記されているのだ。だがすぐに明らかになったところでは、アリアズナとう娘がいるコヴァレフスキー・yラジーミル・アレクサンドロヴィチ海軍少将・海軍省水路管理局長がそもそもこの世に存在しなかったことが明らかになった。
もっとも島田謹二氏が書いているように、1861年に海軍兵学校を卒業したトヴェリ県出身のコヴァレフスキー・ウラシーミル・アラクサンドロヴィチは存在した。島田謹二氏は、その著 『ロシアにおける廣瀬武夫』 のまえがきで、廣瀬武夫の二期後輩でロシア時代の親友加藤寛治 (後の海軍大将。1870〜1939) の口述をもとに、『 (1753〜1896年度) ロシア海軍兵学校卒業者名簿』 (1897年サンクト・ペテルブルグ刊) などを調査した結果、アリアズナの父がコヴァレフスキー海軍少将に違いないと、その特定にあたった経緯を書いておられる。
だがこの士官は1888年 (明治二十一年) 三月一日にヘルシンキにおいて死亡している。人生最期の数ヶ月間、彼は海軍中佐として曳航汽船 「ブクシル」 およびスオメンリンナ要塞中艦隊を指揮し、その死後の三月七日に出された艦隊勅令をもって海軍大佐に任官され、退役した。彼には四人の子供がおり、それぞれエフゲーニヤ、ウラジミール、セルゲイ、ヴェラといった。
夫の死後 (?) 未亡人のコヴァレフスカヤ・エフゲーニヤ・カルロヴナが、ウラジミール、セルゲイ、ヴェラの三人の子供を連れてルジェフに去ったことはわかっている。後に息子二人は海軍兵学校を卒業して士官となった。このうちウラジミールは、1918年 (大正七年) にA・V・コルチャック提督により海軍少将に任官され、オムクス政府海軍相代行の地位まで務めた。
一方、廣瀬の在露時期に海軍省水路管理局長だったのは、コスタンチン・イヴァノーヴィッチ・ミハイロフ艦隊航海士部隊中将である。彼に 「アリアズナ (アリアドナ) という名の娘はいなかった。また、コヴァレフスキーという姓の海軍少将ないし海軍中将は、当時の目録にも記載がなかった。

著:スヴェトラーナ・フルツカヤ
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