明治二十七年
(1894) 中佐は輸送船監督として徴用船の 「門司丸」 に乗り組み連合艦隊の後方支援に就いていた。兵器や弾薬、食料の補給が重要な任務であることは認識していたが日清戦争を艦隊で敵とまみえて活躍できないいたことを友人に書いて送っている。
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十年一日の如
く身体を練磨し、唯ただ 一日事あるの日、奮ふるつ
て人後に落ちざるべき働はたらき
をなさんとせしに、武運拙つた
く身之これ に臨むことを得ざりしとは、遺憾いかん
々々 |
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中佐は海軍士官としての本来の配置・使命感に思いを馳せていたと推察する。しかしその後、待望の軍艦
「扶桑」 に航海士として乗り組み連合艦隊の一員として第一線に立つことになりその喜びを、 |
頑児がんじ
武夫、今夜実に躍躍ゆうやく すべきの辞令に接せり。・・・・・軍艦に乗組み、海軍軍人の任務を尽くすことを得るの時来るれり。 |
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と家族に送っている。海軍士官としての本来の配置を得て使命を感じたのである。さらに威海衛いかいえいく
に出撃前に次の様な辞世の詩を詠んでいる。 |
生于扶桑 扶桑
ふそう (日本の国のこと)
に生まれて 死于扶桑 扶桑に死せん 一死豈已 一死 あに已まん 七生護皇 七たび生まれて皇を護らん |
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真に父から教えられた
「菊池の子孫勤皇の士」 という使命感を二十七歳の若き中佐に見ることが出来る。 威海衛占領直後、中佐は海軍大尉に昇任し、この頃からロシア語に熱中していった。明治三十年
(1897) 、ロシア留学が決定したときの喜びを、この時から使い始めた新しい手帳の冒頭に、次のように書く。 |
明治三十年水無月みなつき
二十日あまり六日の昼、露西亜留学と伝える忝かたじけ
なき命めい を惶かしこ
みぬ。兼々かねがね よりの志、玉の緒お
のあらん限かぎり はと迄まで
思い侍はべ ることなれば、其その
嬉しさは中々筆にも尽つくさ じ
一封恩命下 一封の恩命くだり 男子感知遇 男子知遇に感ず 万死酬無処 万死するも酬むく
ゆるに処ところ 無し 勿忘国家躯 忘るる勿なか
れ国家の躯からだ なるを |
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そしてこの年の八月、仏船にて横浜から出国する。 |