〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜
命 を か け て 守 り 通 し た も の は 何 か

2012/11/01 (木) 自 分 の 配 置 こ そ 死 に 場

明治三十七年 (1904) 、旅順港外で、三十六歳で戦死した中佐については、兵学校生徒の頃からのエピソードが色々と語り継がれている。例えば中佐は江田島の古鷹山ふるたかやま (標高三九二メートル) に百回登山したこと。しかし兵学校が築地から江田島に移転を完了したのは、明治二十一年 (1888) 八月一日であり (開校は八月十三日) 、中佐が第十五期生として卒業したのは翌明治二十二年四月二十日である。 八ヶ月間弱の期間には乗艦実習があり、卒業試験が行われ、大変な日課の中で百回達成の信憑性には疑問が残る。また短艇の江田島一周競技では、競技規則にはないからと短艇を担がせて飛渡瀬ひとのせ を渡り、優勝したという話も伝わっている。もしそれらが事実ならば必ずや父に、あるいは祖母に手紙で細かく知らされているはずである。しかし書簡集には古鷹山登山の話や短艇競技の事は残っていない。反面、宮島みやじま までの遠漕については弥山みせん 登山の状況まで細やかにその感激を伝えている。最後まで廣瀬家の遺風を守り抜くという中佐の 「使命感」 知る上では書簡以上の史料はなく、伝えられている風聞は役立たない。
江田島健児の歌最終章六番に 「たお れてのち まんとは」 の一節がある。これは死を美化したものではなく、自分の時々の配置を大事にすること、誠を尽くすことを教えている。
そして 「斃れて後に已まんとは」 の教えは、自習室の正面に掲げられていた 「廣瀬中佐」 と 「佐久間艦長」 の使命感に通ずるものである。それは自分の配置を守り通して、死に場所とした二人の指揮官としての生き方であり死に方である。
今でも海上自衛隊では上陸が許可されて艦に帰ることを 「旗艦」 といい、 「期間時刻を守る」 ことが厳しく躾けられる。私が若い時に仕えた指揮官に 「戦時艦隊勤務で一番嫌な時は何でしたか」 と聞いたことがある。そのときの答えは 「それはトイレだ」 と即答された。そして 「そこは自分の配置場所ではないから」 といわれた。できるだけトイレの時間は短くと心掛けていたとのことだ。そういえば、機関長はあのうるさい機関室の中でも居眠りをしていたし、艦長は艦橋の椅子で気持よさそうにいつも居眠りをしていた事を思い出す。安心して眠れる場所、そこが配置場所なのだ。だから何かあれば先ず艦に帰る。そこが配置場所だから。そして艦内では、魚雷員は魚雷のそば、射撃員は大砲のそばに居る事が安心できる場所となる。

著:古庄 幸一
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