中佐は三十六年間の生涯で二千通以上もの手紙を書いている。その多くは時々の喜び、悲しみ、そして日常の行事や出来事を実況中継風に微に入り細に入り筆にし、家族や友人に宛てたものであり、和歌や漢詩も多く詠まれていて、その才分は父親譲りと言われている。それらの中から、先祖・家名大事という廣瀬家の遺風に通ずると思われるいくつかを拾ってみよう。
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海軍兵学校合格を兄勝比古から知らされて、祖母と父宛てにその喜びを書いている。 |
頑児
兵学校入学試験は、漸ようや く点数調相済候あいととのいすみそうろう
との事にて、・・・・・信に欣喜雀躍きんきじゃくやく
の至りに御座候ござそうろう 。早晩身を立て家を興すの階梯かいてい
も第一段に上り候と存候得ぞんじそうろえ
ば、実に一大快事かいじ 、大慶之たいけいの
至りに御座候ござそうろう 。 |
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兵学校入学所感として詠んだ漢詩 |
男子豪腸呑海鯨 男子の豪腸ごうちょう
海鯨かいげい を呑の
む 雄心盟欲挙家声 雄心ゆうしん
盟ちか いて家声かせい
を挙あ げんと欲す 苦学三年何得所 苦学三年
何の得る所ぞ 漸上青雲第一程 漸ようや
く上る 青雲の第一程 |
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○ 父の激励の手紙に対する返信の中に詠まれた和歌。 |
武夫もののふ
の 大和魂やまとだましい みがきあげ 我錦にしき
きる 時をこそ待て |
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○ 攻玉社の同窓生で陸軍幼年学校に入学した友人に出した手紙の中の漢詩。
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・・・・・ (前略)
・・・・・ 丹心一寸国干城 丹心たんしん
一寸いっすん 国の干城かんじょう
なり 陸軍唯願駕籠普佛 陸軍は唯ただ
願う プロシアとフランスを駕しの
がんことを 海戦亦応圧米英 海戦またまさに米英を圧すべし 期共他年成業日 共に他年成業の日を期して 凌烟閣上絵功名 凌烟りょうえん
閣上かくじょう に功名を絵えが
かん |
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○ 明治二十一年 (1888) 、海軍兵学校が築地から江田島に移転し、二十二年卒業試験が行われたが、左足骨膜炎の手術による空白もあり中佐の成績は良くなかった。卒業式直前の父宛ての手紙。 |
今回は是非奮発仕つかまつ
らんと存ぞんじ 候そうろう
処ところ 、またまた例の不勉強故にや、未いま
だ確たる成績は知れ申さねども、甚はなは
だ不成績にて、漸ようや く卒業仕つかまつり
候そうろう 事こと
と存じ、実に申訳もなき次第、・・・・ 頑児がんじ
不肖ふしょう と雖いえど
も、菊池の末裔まつえい 、大人たいじん
(父重武のこと) の子たり。乗艦の上は、孜々ここ
勉励べんれい 、仮令たとい
学業は学校にて不成績たるも、実地のことに於ては、決して他人の下に屈すまじと期す。斯か
くて一は厳大人家兄 (父重武と兄勝比古のこと) の厚情に答へ、一は祖先の名を辱はずか
しめざるべしと、格護かくご 仕つかまつり
候そうろう 。 |
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結果的には一号生徒八十番中六十四番の成績であった。三つ子の魂百までという。子供の頃受けた
「先祖に恥じない」 という教育を戦死するまで守り続けた中佐の使命感を次に考えてみたい。 |