〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜
命 を か け て 守 り 通 し た も の は 何 か

2012/10/31 (水) 赤 レ ン ガ 生 徒 館 に 飾 ら れ た 写 真

郷土の先輩たる海軍士官として、私が廣瀬中佐を大きく認識したのは、江田島の幹部候補生学校である。私は昭和昭和四十四年 (1969) 三月防衛大学校を卒業し海上自衛隊幹部候補生学校、第二十期幹部候補生として入校した。海軍兵学校であった赤レンガ生徒館の各自習室の正面に 「東郷元帥」 「廣瀬中佐」 そして 「佐久間艦長」 三人の写真が掲げてあり、我々は一年間毎日この海軍大先輩に見守られて生活する事になる。これらの写真が何時頃から何故飾られたかは、誰からの説明もなかった。
英国のネルソン提督と並ぶ二大提督の一人、東郷平八郎元帥 (1847〜1943) については若い候補生と言う身分の我々にとっては、余りにも偉大で高く遠い存在であった。しかし、日露戦争で戦死した廣瀬武夫中佐と、 「六号潜水艇」 の訓練中に殉職した佐久間艇長 (1879〜1910) は、指揮官としてのあり方を教わるうちに何か身近に感じ意識するようになった。特に廣瀬中佐については同郷の竹田出身ということもあり、時間を見ては参考館 (海軍の資料室) に行き、廣瀬中佐コーナーに展示されている様々な写真や書き物等の史料を見ては、海軍士官としての廣瀬中佐像を、少しずつ自分なりに造っていったように思う。
その後三十歳の後半、即ち中佐が戦死した年と同年齢まで多くの配置に就いたが、部下と指揮官あるいは配置と責任のあり方等を考える時、どこか気持の中に、廣瀬中佐ならどうしただろうというあみ掛けをして、判断の粮にしていた。家族、郷土を大切にしながら部下を思い部下を愛し、配置を優先し、その分を尽くす努力をしていた中佐は、どの様にして生まれたのか。郷土の後輩、海軍の後輩として考えてみたい。

著:古庄 幸一
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