〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜
命 を か け て 守 り 通 し た も の は 何 か

2012/10/31 (水) 廣 瀬 神 社 と 訓 育 日 課

帝国海軍以来使われている 「艦隊錨地かんたいびょうち 」 という言葉は、艦隊勤務の船乗りにとっては色々な思い出と共に郷愁を覚える言葉である。例えば佐伯さえき 湾、宿毛すくも 湾、柱島はしらじま 沖、木更津きさらづ 沖等であり、中でも大分県の佐伯湾は毎年艦隊集合訓練が行われていた事もあって、特に懐かしい泊地である。
四国沖の太平洋上で、射撃や対潜訓練を実施した艦隊は、訓練終了後、豊後水道を北上して、各艦あらかじめ指定された佐伯湾の艦隊錨地にいかり をいれる。っそこで大砲や機関の整備をしながら、戦術研究会や運動競技が開かれるのである。しかし隊員にとって何よりも楽しみは、課業終了後に許可される上陸であり、夜の佐伯の街に繰り出し、季節によっては豊後フグで、関アジ・関サバまたは城下しろした カレイで一杯遣ることであった。
そんな中、若い隊員に対して訓育日課という時間があり、バスを借り切って竹田市に向かい廣瀬神社参拝が行われていた。廣瀬神社では参拝後、展示されている軍艦 「朝日」 のカッター (十二人で漕ぐ短艇) の前で古参の訓育担当幹部から、 「軍神廣瀬武夫」 についての話を聞かなければ自由時間にならなかった記憶がある。
訓育担当の幹部は準備よろしく、まるで見てきた様な語りで日本海海戦の旅順口閉塞戦を聞かせるのである。
「・・・・・其の時廣瀬中佐は杉野上等兵曹が居ない事に気づく。中佐はカッターから縄梯子なわばしご で再び福井丸に乗り込み、杉野! 杉野! と叫びながら船内を探したが杉野は見つからない。敵弾が飛来し沈みつつある福井丸船内に二度三度と杉野を求めて・・・・・」
という具合に講壇風の調子をとるのである。そして訓育が終わり、 「ただいまより一四〇〇ひとよんまるまる (午後二時) まで自由時間とする。かかれ!」 の令により隊員は、三々五々廣瀬神社の鳥居をくぐり市内に向かって石段を降りて行く、私は、

「天地の霊気こるところ
山紫水明たぐい なし
神秘の鍵を誰が握る
楽聖がくせい 画聖がせい 我等が師
ひとしくめでたりこの郷土
竹高我等眉上る」
と好きな母校の校歌三番を口ずさみながら 「文武両道」 の扁額へんがく がかかる竹田高校に向かっていた。ちなみに、楽聖とは名曲 「荒城の月」 を作曲したたき 廉太郎れんたろう 、画聖とはわが国南画の祖といわれる田能村たのむら 竹田ちくでん のことで、どちらも竹田市ゆかりの先人である。
著:古庄 幸一
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