〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Z』 〜 〜
国 際 人 と な っ た ぶん たけ 生 ま れ の 攘 夷 家

2012/10/31 (水) 人 生 を 変 え た 八 代 六 郎 の 言 葉

大津事件が契機になりロシア語学習を決意した廣瀬武夫であるが、海上勤務のため学習の時間は取れなかった。実際にロシア語学習を始めたのは、矢代六郎がウラジオストックから帰国してからである。麹町こうじまち 上六番町の兄に家に住んでいた廣瀬武夫は、麻布永坂町の八代邸に通ってロシア語を習った。明治二十八年 (1895) 四月には三国干渉が起こり、日本中が 「臥薪嘗胆がしんしょうたん 」 を合言葉にロシアを仮想的国視し始めた。ロシア語の習得は必要不可欠になった。
八代六郎がロシア公使館に赴任してからは教師がいなくなり、明治二十九年 (1896) 九月二十日、東京外国語学校出身でロシア語を解する旧友の鈴木要三郎・海軍主計官に、ロシア語の教師を周旋しゅうせん してほしい、しかし貴君自ら一日に半時間もしくは一時間ロシア語を教えて頂けると 「大幸たいこう 不過之候これにすぎずそうろう 」 との願いの手紙を出した。明治三十年 (1897) 元旦に 「一年の計」 として 「三大事」 を記した。 「三大事」 とは 「ロシア語学ノ研究ヲ一層勉励べんれい スベキコト」 「海軍学術ノ研究、時勢ニおく レザルヲ期スルコト」 「精神ノ涵養かんよう真成しんせい 軍人ノ地歩ちほ ヲ確ムルコト」 であったが、 「ロシア語学ノ研究」 は、その首位を占めていた。
廣瀬武夫がロシア語の独学に励んでいることは、話題になっていた。廣瀬の卒業席次は既に述べたようにかんば しくなかったが、実地訓練は抜群の成績であった。明治二十六年 (1893) 五月十一日に始まり十月三十一日に終わった第八期水雷術練習尉官教程 (後の水雷学校高等科学生) では三十二名中首席で終了した。因みに二位が秋山真之であった。その上、廣瀬の人柄は申し分なかった。かくして廣瀬武夫のロシア留学は決定された。廣瀬武夫はフランス留学の村上格一、ドイツ留学の林三子雄と共に明治三十年 (1897) 八月八日、フランス船 「サラセン号」 で横浜を発った。そしてパリ、ベルリンを経てロシアの首都サンクト・ペテルブルクには九月二十六日に着いた。駅には公使館附武官の八代六郎が出迎えてくれた。廣瀬は八代の助言で、ロシア語教師についてロシア語の勉強を始めた。八代は 「ロシア語を物にしてロシアの海軍事情を知るだけでは駄目だ、ロシア海軍の背景にあるロシアの歴史や文化を理解しない限り、ロシア海軍の真の姿は理解できない」 と廣瀬にアドバイスした。
八代の言葉は廣瀬の人生を変えた。ロシア語が読めるようになると、ロシアの国民性を理解するためプーシキン、レールモントフ、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、トルストイなどの作品を読み、その感想をロシア語教師と語り合った。軍事情報を得るためロシア各地を旅したが、その際には一般ロシア人の生活文化にも触れるように心掛けた。親しく付き合う家族も生まれた。機雷の専門家アナトリー・コヴァリスキー海軍大佐の一家とペテルブルク大学教授で有名な医学者のフォン・ペテルセン博士の一家である。

著:辻野 功
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