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国 際 人 と な っ た ぶん たけ 生 ま れ の 攘 夷 家

2012/10/31 (水) 国 際 人 と な っ て 帰 国 し た 攘 夷 家

廣瀬武夫のロシア生活は、明治三十五年 (1902) 一月十六日にサンクト・ペテルブルクを発ち、雪のシベリアをそり で横断して三月二十八日に帰国するまで、四年余りであった。当初留学の目的は 「彼 (敵) を知るため」 であったが、 「彼 (ロシア) 」 を第二の祖国と思うようになって帰国した。そればかりではなかった。コヴァリスキーの娘アリアズナに恋され、それを知った廣瀬も、彼女に応える気持ちになっていた。ペテルセン家の長男オスカルは廣瀬を実の兄の如く慕うようになっていた。姉のマリアも廣瀬に恋していた (と筆者は考える) 。ただ彼女は控えめな性格で、アリアズナのように心情を廣瀬に吐露出来なかっただけである。
「彼 (敵) を知る」 ためにロシアに留学した廣瀬武夫は、 「汝の敵を愛する」 ようになって帰国した。敵国ロシアを知る為にだけ留学した 「攘夷家」 の廣瀬武夫は、ロシアを第二の祖国と考える国際人として帰国した。しかし海軍軍人である廣瀬武夫は武士道精神で正々堂々とロシアと戦うしかなかった。周知のように廣瀬武夫jは明治三十七年 (1904) 三月二十七日の旅順口閉塞作戦で戦死したのであるが、彼は作戦実行の前に、大要事のように語った。
「旅順口閉塞作戦に成功した暁には東郷平八郎連合艦隊司令長官の許しを得て一時艦隊を去り単身旅順に赴き極東総督アレクセーエフ将軍に面会して、真心を持って戦争の利害得失を説き、要塞の無血開城を勧めるつもりである」
しかし仮に廣瀬が閉塞作戦に成功して帰還しても、彼の案が認められたとは思えない。だがこのように考えた海軍軍人が豊後竹田から生まれたことを思うと、豊後竹田の素晴らしさと明治時代の健全性に思いが至るのは、私だけではないであろう。

著:辻野 功